僕は良い物を追い求めたい 第2章: 喘鳴

【連載】僕は良い物を追い求めたい
- 【第1回】 僕は良い物を追い求めたい 第1章: 人生を豊かにする家具
- 【第2回】 僕は良い物を追い求めたい 第2章: 喘鳴 ←今回はココ
- 【第3回】 僕は良い物を追い求めたい 第3章: 伝えてゆきたい
第2章: 喘鳴
坂の上のマンションから、ガードレールに沿って、町の暗い部分へ降りてゆく。
案外ラクチンじゃないかと余裕で走っていたら、いやにスピードが出た。そして、気が付いたら坂の下のところまで来ていて、足元の溝に水が流れ、ちょろちょろという音が耳に入った。ガードレールの向こう側は雑林になっており、そこは多分、崖のようになっている。
(真夜中に来る場所じゃないな)
と、僕は思った。

絶妙なタイミングで風が吹いてきて、ガードレールの向こう側の藪がざわざわと音を立てた。生ぬるい風に青臭さが混じる。おまけにかさこそと草葉をかきわけるような気配を感じた。
小さな獣が住んでいる。町の中にも、人間の知らない世界が蠢いている。
知らなかった、タヌキがいたのか。
一瞬、赤く光る二つの目玉と毛むくじゃらの体を見た。足を止めなかったのと、相手も僕と懇意にするつもりがなかったのとで、それはごく一瞬の邂逅に終わった。
下り坂も終わった。
僕のランニングシューズは、なんら追い風のない、ほぼ水平のアスファルトを踏み続けていた。
ぜいぜい。
何の音かと思ったら、それは僕の喉の奥から絞り出される喘鳴だった。
下り坂で早く走りすぎたのだ。楽をしている気分でいたが、実際、体力は消耗されていた。汗もだくだくと零れており、今にも立ち止まりそうになりながら、僕は走っていた。
(ああ、なんでこんなに走っているんだろう)
ぱあっと目の前が白くなったかと思うと、普通車が一台、前から走ってきた。
歩道を走っているのに、やけに車との距離が近く感じる。すれ違う時、多分、運転手は僕には気づいていなかった。
走り続けることの怖さを、なぜだかしみじみと感じたーーああ、なんで僕は走っているんだろうーー風が吹くたび、藪が凶暴な音を立てる。ガードレールの足元から、きっと、人知れず蠢く夜の獣たちが僕を見上げているのだろう。獣たちも思っているのに違いなかったーーなんでこの人は、こんなに走っているのだろうーー立ち止まりたい、と、僕は思った。
汗が目に入りそうになった。
片手で拭いながら空を見ると、はっとした。
これほどまでに、夜空が綺麗だなんて。
というより、この都会で、まだこんなに星を見ることができたなんて、今まで知らなかった。
時刻は今、0時半を過ぎている。
橋の向こう側は、不眠の町だ。こうこうと明るい、色とりどりの輝きをともし続ける店や会社が地上を飾る。
もし、僕がそっちの道を選んでいたならば、夜の藪や、闇の中のランナーに気づかない車に怯えることはなかっただろう。
だけど、こんなに綺麗な星空を見ることも、なかったのに違いない。
大気が揺れているのだろうか。
僕の頭上遥か彼方にちらばる星たちは、どれも細かく瞬いていた。
(走ろう)

日本には良い家具がたくさんある。
それは、伝統ある家具メーカーがあるからだ。
もちろん日本だけではない。アメリカにも、シンガポールにも、素晴らしい家具のメーカーは存在する。優れた家具職人は世界中に存在する。
職人たちは、1ミリの狂いも許されない家具製作に取り組んでいる。たった1ミリの狂いが、家具の価値を左右する。
その、とてつもなく厳しい世界を、僕は垣間見ている。
(なんて、凄い)
自分の仕事に妥協を許さない家具職人たち。そして、職人たちによって成り立つ家具メーカー。
僕は、彼らのこだわりに感動した。心が震えた。職人たちは自分たちの家具を「良い物」にするために、日々、戦いのような家具製作を続けている。
世の中には家具が山のように溢れている。消費者は自由に好きな物を入手することができる。何を「良い」とするかは人それぞれだ。それは、僕だって分かっている。
安くて見栄えが良ければ、もちろん、人はそういう物に殺到する。それを「良い物」と考える。
ぜいっ。
ぜいっ。
僕は走っている。足がどんどん重くなり、スピードは極端に落ちていた。
疲れていた。全身が悲鳴を上げている。一体、どれくらい走ったんだろう。
ああ、喉が渇いた。
休みたい。休みたい。
良い家具を世の中の人に伝えたい。そして、良い家具に囲まれて幸せな人生を送って欲しい。僕の主張が、人々の価値観の中に取り入れられて欲しい。
その思いが溢れて、パンクしそうになって、走らずにいられなかった。
くたくたになるほど走れば、もしかしたら何か良い案が浮かぶかもしれない。そうじゃなかったとしても、僕の中の焦燥が少しは落ち着いて、楽になれるかもしれない。
そんな思いで、真夜中のジョギングを唐突に始めた。
だけど、嗚呼。
(ただ疲れただけだ)
今にも足が止まりそうになる。ちょうどその時、僕の視界に夜道を照らす光が映った。
自動販売機があった。
何でも良い、飲みたかった。そこで足を止めて冷たいものをあおり、それでもう、今日のジョギングは終わりにしたかった。
もういいじゃないか。
走って何が変わるわけでもない。
足を止めようとした時、ウエストポーチの中で、スマホが鳴った。
ラインが、入っていた。