第2話: 地域文化と時代に寄与するモリタインテリアの魂

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カヴァースメディア部

日本一の家具生産地を誇る大川にあって、その歴史を牽引した企業のひとつモリタインテリア工業。1950年の創業以来、「品質」と「デザイン性」を追求し、技術・素材・デザインの「モリタインテリア品質」を受け継いできた。物流手段として大いに役立った筑後川が氾濫し、大災害に見舞われた1953年、その悲劇を乗り越えて家具製造をイノベーション。1970年にはモリタインテリア工業株式会社として家具づくりを極めていった。

モリタインテリアが商品に込めたストーリー

新聞記者から見た「モリタインテリア」の姿

第1話: モリタインテリアと大川市の家具の歴史

第2話: 地域文化と時代に寄与するモリタインテリアの魂 ← 今回の記事

第3話: 妥協を許さないモリタインテリアの技術力

第4話: 人の暮らしと地球の未来を見つめて

創業者・森田虎雄氏が育てた大川の家具文化

家具業界で、モリタインテリアの存在感が増していく。この時代、九州圏内の家具需要は満たしていたが、日本全国への物流ルートがなく、もっと需要がある場所に売れなかった。思い立ったら即行動-。モリタインテリアの呼びかけで、家具メーカーを集め、組合を作り、全国各地へ進出するインフラも整えていった。他にも家具産地と呼ばれる地域はあったが、それに比べて大川は全国展開への取り組みの早さが違った。

しかし、新しいことには反発はつきものだ。「九州圏に需要があるのに本州に出ていくのか」などと批判の声もあったが、それでも信念を貫き、大川の家具文化への繁栄につなげた。そして1986年、森田虎雄氏が、業務に精励し他の人の模範となる者に授与される褒章である「黄綬褒章」を受章した。

日本一の家具生産地の製造・物流システム

大川が日本一の家具生産地と呼ばれるまで成長したのは歴史の深さや環境、そして森田虎雄氏の努力があったことは間違いない。地域の優位性は今でも受け継がれており、金物屋を初め、家具関係の資材を取り扱っている店が多いことは、他の家具産地からはとても羨ましがられるという。また物流会社が集まっている場所があるため、家具メーカーはそこへ持って行き、卸せばことが済むというのは大きなアドバンテージだろう。このため、顧客への直送も問題にならない。またメーカーから家具屋に卸す物流のルートは、大川の物流会社から関東・関西・北海道などの、家具屋が提携している物流センターに納品。そこからさらに枝分かれして家具屋の倉庫に入る。

他の地域では、普通の運送会社では大型貨物である家具は扱っていないため、遠方まで運ぶ手間がかかる。さらに大川でも多くない家具業界の物流会社が、他の産地ではさらに少ないため、価格もサービスも選べない。直送も高いそうだ。

ライフスタイルの変化に応える製品開発

1987年には三潴郡大木町にショールーム、管理本部、企画本部が完成。1990年には総額10億円を投じ、延床面積5299㎡、敷地8,456㎡の鉄骨2階建脚物工場を操業させる。これまでは収納ものばかりを作っていたが、テーブルや椅子などの脚物を作り始めた。それにも明確な理由がある。ちょうどこの頃、世の中の住居が一戸建てからマンションへシフトし始め、クローゼットなど収納の形が変化。収納家具に文化がなくなってきため、転換しないと生き残れないと思っていたところだった。時代のニーズを汲み取り素早く行動することで、時代の変化に対応。これが今では老舗メーカーとして君臨する所以だろう。

その後もモリタインテリアの勢いは止まらない。2001年にはコントラクト事業部を立ち上げ、受注開始。2007年、ショールーム1、2階A棟リニューアル。翌2008年、建築工事業を取得。2016年には特需販売事業部を立ち上げるなど、事業規模を拡大してきた。婚礼家具から始まり、収納の変化に合わせて、脚物へシフト。全国展開できる物流網の構築など、努力の賜物がこの70年には詰まっている。その間、中国やベトナムから安い家具が入ってきて日本の多くのメーカーは潰れてきた。それでもモリタインテリアは高品質を保ちながら、時代に合わせた手法で大川の家具業界を引っ張ってきた。

現在の売り上げ比率は家具屋が7割、ハウスメーカー工務店が2割、1割がお客様の家に合わせたオーダー家具になっている。オリジナル開発の依頼も多くあり、ワンストップで製造が可能。社内に企画するデザイナーもいるため、お客様のスケッチひとつで図面に落とし込んで制作することもできることも好評のよう。家具に見識がないお得意様には、自社のみでアドバイスをしながらより良い家具づくりを提案できるのだ。

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