へそまがりの美しきカーブ 序章: “ふさわしい”夢

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カヴァース小説部

序章: “ふさわしい”夢

 「曲木」。

 それは、まっすぐで固い木を、自由自在に美しく曲げる技術である。

 木は、優れた職人の手で曲げられることで、より美しくなる。

 人の生活を豊かにするためには、ゆったりと適宜に曲がった木が必要なのだ。

 わたしはその椅子が、大好きだった。

 その椅子は、幼かった時も、成長して大人になった今も、しっくりと体に馴染むのだ。まるで、わたし自身に寄り添い「これでいいのだよ」と、肯定してくれるかのように。


 国体選手の多くは、ごく幼いころから馬に乗り始めている。

 早い人は、まだ幼児の頃から。遅くとも、小学生のうちに、乗り始める。例外的に、高校の馬術部で初めて馬に触れたが、思いのほか体に合っていて、どんどん頭角を現した、という人もいるのだが、そういう人にしても、幼いころから親の期待を背負い、馬に乗り続けた人には叶うまい。

 

 馬は、人を選ぶ。その人が馬乗りに相応しいかどうかと、馬の方が瞬時で感じ取る。

 またがった瞬間から、人と馬の関係は決まっていると言ってよい。

 例えそれが、無邪気な子供であろうと、人生経験のある大人であろうと、馬にとっては関係がない。

 (クラブに入った時、三十路前すれすれだったもんな)

 

 今、わたしは、馬術を諦めることを決めた。これは、今までも「そうしなくてはならない。人生のためにも」と何度も思ってきたことである。馬を続けるのには、お金がかかる。そのお金を馬に当てることができる人のみ、続ける権利がある。

 才能だけで馬に乗り続けている人も、中にはいる。

 けれどそれは、本当に幼いころから馬に乗り続け、その道で栄光を掴むことを誰からも期待される立場の人である。

 馬に乗るために、お金の階段をかけのぼることを、当然だと思うことができる恵まれた人である。

 

 わたしは、そう思う。

 あるいは、僻みからくる歪んだ考え方なのかもしれないが、ごく一部の限られた条件の人でなくては許されないということは、真実の一部を鋭く突いているはずだ。 

 (わたしは、わたしの人生に戻らねばならない)

 馬に乗るための時間が欲しいので、正社員ではなく、時短のパートをしている。

 その少ない給料の大半を馬にあてがう。そんな日々を永久に続けるわけにはいかなかった。

 夢には種類がある。

 自分に合う夢と、合わない夢。

 これは、綺麗ごとでは片付かない。神様は、きちんと理由があって、この人にはこれは相応しくない、この人にはこれが相応しい、と、道を定めているようだ。

 その道を、受け入れられた時、人間は自分の人生を幸せにすることができるのだと思う。

 だけど、受け入れるのは容易なことではない。

 夢には、中毒性があるのだから。

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