バレエと秋田木工のチェア 序章: ダイニングチェア

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カヴァース小説部

序章: ダイニングチェア

深く息を吐きながら、ゆっくりと静かに太ももを伸ばしていく。リハーサル室の壁に備え付けられたバーに脚をかけ、上体を曲げながら、時間をかけて丁寧に脚を伸展させる。細長い太もも裏の筋肉が、一本ずつ静かにほぐれていく。

伸ばしていく時は、太ももだけに意識を集中してはいけない。お尻、背中、首から頭のてっぺんに至るまで、人間の肉体に連なる筋肉と筋膜を意識して伸ばしていく。特にお尻の筋肉は、骨盤と大腿骨を繋ぐ重要な筋肉だ。お尻の深部にある細かな筋肉の一つ一つに意識をやり、それらに明確に神経を通わせ、血流を送る。

雪絵はバレエの公演が終わったあと、今日一日頑張ってくれた筋肉、骨、腱、関節すべてに感謝の言葉を述べながらストレッチをする。そうしてやる事で、公演を終えてバラバラに砕けそうになった肉体は、柔軟でしなやかな一体感を取り戻し、いつも通りの美しい全体像を取り戻した。

「みんな、今日も一日ありがとう」

雪絵は自分の肉体に感謝の言葉を述べ、ストレッチを終えた。感謝の言葉をかけてもらった筋肉や骨たちは、雪絵の気持ちに応えるように、肉体に蓄積した疲労や痛みを少し和らげてくれた。

「雪絵、もうストレッチ終わった?」

先にストレッチを終えていたエレナが声を掛ける。

「うん、いま終わったところ」

汗ばんだ額を拭いながら、雪絵が顔を上げる。エレナはすでに着替えも終えており、セーターにジーンズ、首にはマフラーを巻き、手にはダウンジャケットを抱えている。

「それじゃあ早く雪絵の家に行こうよ、私はほら、もう準備万端だからさ」

小脇に抱えたダウンジャケットとスポーツバッグを持ち上げ、いつでも帰れるというポーズでアピールする。

「分かったわエレナ、私もいまから着替えるから、ちょっと待ってて」

「待てないからこうして着替えも済ませてるんじゃない、早くしてよ雪絵、私もうお腹ペコペコなんだから」

エレナは無邪気に笑いながら引き締まったウエストを摩る。

「はいはい分かったわよ、急いで着替えるわ、もう、エレナったら同い年なのに、まるで私の娘みたい」

雪絵がそう言うと、二人は誰もいないリハーサル室で声を出して笑い合った。

雪絵がロシアのバレエ団に入団して五年。ロシアに留学してから含めると、雪絵は日本の中学校を卒業してから十一年のあいだ、家元を離れロシアで暮らしている。バレエ学校に在籍していた時は学生寮で生活していたが、今はマンションで一人暮らしをしている。部屋の間取りは1DKとコンパクトなつくりだが、雪絵は狭いながらも寛げる自分の住まいが気に入っていた。

なかでも雪絵が一日の大半を過ごすのは、木の椅子とテーブルを配したダイニングキッチンだ。大人二人が食事をとれるほどの小柄なダイニングテーブルと、湾曲した木の背もたれが特徴のダイニングチェア。柔らかな曲線を描く椅子の背もたれは、見る者の目を和ませ、使う者の身体に自然にフィットする、優しくて温もりのあるデザインだ。雪絵にとってはたくさんの思い出が詰まった大事な家具。それは実家の祖母から譲ってもらった秋田木工の椅子とテーブルだった。

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