フランスベッドのようなひと 序章: グタグタ状態

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カヴァース小説部

序章: グタグタ状態

 昔、日本人にとってフランスは憧れの夢の国だった。「おフランス」という言葉があったくらいだから、「フランス」のイメージは豊かさの象徴だったのかもしれない。

 幸福、裕福、幸せな人生、色鮮やかな世界。夢の国。

 そのフランスの名をいただいた「フランスベッド」は、1949年に創業した。

 

 (歴史もある。知名度もすごく高くて、それに・・・・・・それに)

 この、寝心地だ。

 高精度連続スプリングが実現した、最高の寝心地。安心感。

 ここでならば、休むことができる。

 

 十分に眠ることができる。


 わたしは非常に疲れていた。三か月前、結納寸前だったのにも関わらず、逃げていった恋人のことを引きずり、忘れるために仕事に精を出した。

 「真鍋さん最近すごいよねー」

 「がんばってるぅ」

 「やっぱ、あれですか。もうじき結婚されるから、幸せパワーで疲れ知らずなんじゃないですかぁ」

 同僚や後輩たちからの言葉は、悪気のないものだ。わたしは結婚がご破算になったことを、誰にも言わなかった。幸せだから頑張れるんですよね、と冷やかすように言われて、「へへへ」と笑ってかわして、心の中はくたくたに疲れていた。

 (眠りたい。早く、仕事が終わって、一人になって、眠りの世界の中に)

 残業をして、会社でぽつんと残って、やっと帰宅する。一人のアパートに戻り、ようやくほっと素顔に戻る。泣いたりはしない。泣くくらいなら、一刻も早くベッドに入って休みたかったから。ベッド。お布団。窮屈なものを脱ぎ捨てて、身軽になって、誰にも邪魔されずに眠る。

 寝ている間だけが、安らげる。

 と、思っていた。

 けれど、実際は。

 「真鍋さん、なんか痩せてこなかった」

 「ウェディングドレスのためにダイエットしてるんじゃない」

 「いや、それにしては顔色がさぁ」

 ひそひそと囁かれる、給湯室の噂話。わたしの疲れは隠し通せるものではなかった。時間が経つにつれ、誰もがわたしの異変に気付き始めた。やがて主任に「最近どうしたのよ」と言われ、飲みに誘われ、その時点でもう限界に達していたわたしは、あらいざらい喋ってしまったのだった。

 「結婚して縛られるより、自由に生きていきたいとか。キミは結婚に拘り過ぎていてついていけないとか」

 なによぉ、女の29歳は、大事な大事なけじめのトシなのよぉ。ぎりぎりまで待ってやったわたしのことを、言うに事欠いて、「結婚に拘りすぎている」だとぅ。

 最後のあたりは、もはや、普段のわたしの原型を留めていないグダグダ状態だったと思われる。

 主任はうんうんと聞いてくれ、「もう忘れチャイナモンゴル」とか、よくわからないギャグを放っていた。なので、主任がそこまで重く受け止めているなんて思いもよらなかったのだ。

 激しい二日酔いに悩まされるほど飲んだ翌日。

 昨晩は謎のギャグを放ちながら話を聞いてくれた主任が、その朝は真顔で、わたしを相談室に呼び出した。一体なんだろう、昨日、無礼講が過ぎただろうかとドキドキしていたら、「明日からしばらく有休とりなさい」と言われて唖然とした。ええっと声を張り上げたら、主任は一瞬顔をしかめた。あ、頭が痛いんだ、主任も二日酔いだと勘付いた。

 わたしに付き合って、お酒を飲み過ぎた主任。あの後、真剣にわたしのことを案じて下さったのだろう。

 「いえ、仕事させてください」

 と、わたしは追いすがった。

 主任は頭の痛い顔をしながら「仕事に逃げているうちに心身を壊したら、今度は仕事ともお別れしちゃうことになるかもしれないよ」と言った。ドキリとした。

 ひるんだわたしの顔をじっと見つめ、主任は言った。

 「いいね。よく休んで、ちゃんと心を整理して、それから戻っておいで。周りの子も気づきだしているし、誰も変な風に言わないよ。みんな、心配してるんだからね」

 ウウウと涙が出そうになった。

 そして、この期に及んで、去っていった恋人のことを考えた。わたしは今、こんなにウェットな気持ちなのに。わたしの周囲の人も、しみじみ肌に染みるような温泉みたいなのに。

 ああ。

 あの男ときたら、ドライすぎて、まるで。

 (まるで、折りたたみベッドの上に薄い布団敷いて、それを夏用のひえひえシーツでくるんだような人だわ)

 そう、思った。

 そして、分かった。

 ここしばらく、休みたい、寝たいと思い、日々待ち望んでいた睡眠タイムが、ごく浅くて薄っぺらくて、全然疲れが取れない貧相なものであったことを。

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