フランスベッドのようなひと 第1章: 眠りたい
【連載】フランスベッドのようなひと - フランスベッドが叶える夢
- 【第1回】 フランスベッドのようなひと 序章: グタグタ状態
- 【第2回】 フランスベッドのようなひと 第1章: 眠りたい ←今回はココ
- 【第3回】 フランスベッドのようなひと 第2章: フランスベッドのようなひと
- 【第4回】 フランスベッドのようなひと 終章: Voyageur mignon
第1章: 眠りたい
思いもよらない長期休暇を頂いてしまったものの、最初の数日は逆に気が休まらなかった。
(これまで、仕事に逃げてきたんだもんなぁ)
恋人に去られて以来、ぼうっとしていたらそのことばかり考えてしまうので、とにかく仕事で頭をいっぱいにしていたかった。一つの仕事が終わったら、息つく暇もなく次に着手する。時には人の仕事を奪う勢いで、飢えたように仕事をしてきた日々。そんなことをしているから消耗しているのだけど、仕事から離れたら離れたで、今度はいきなり、鬱っぽくなってしまった。
(もう再来月で30歳だよぉ)
気が付いたら、アパートの部屋にこもりきりで、昼間から布団にもぐる生活になっていた。疲れた、休みたいよう。独り言のようにそればかり呟いていて、布団の中で昼も夜もなく眠りを貪った。だけど、どういうわけか、どんなに寝ても状況は好転しなかった。それどころか、絶望やら、色々なマイナスなことがどんどん頭の中に溢れてきて、体もちっとも癒されなかった。
これじゃいけないと重い腰をあげ、せめて旅行でもして気分転換せねばとパソコンを開いた。今の自分に遠方まで旅をする気力はなかった。どこか「ここじゃない場所」に行き、何日か滞在することができれば、何とか少しはマシな心身状態になりそうに思った。
海だ、海があるところがいい。そうだ、隣の町は海に面しているし、砂浜もあった。行ってみようかな。
ネットで適当なサイトを見て、宿を予約した。
そのへんのものをバッグに詰め込み、ふらふらっと早朝にアパートを出て、長距離バスに乗り込んだ。バスに揺られている間も、うとうとしてしまう。眠りたいのだ。でも、寝ても寝ても、全然楽にならないのだ。
休むことさえできれば、きっと、現実から立ち直ることができるのに。
ああ、眠りたい。
眠り・・・・・・たい。
バスの中は暖房が効いて温かだ。ゆらゆら揺れて睡眠欲をあおる。これで背もたれを思い切り倒すことができれば。足を上げることが叶えば。
(腰が痛い。首が辛い)
浅い夢の中で、どこか外国の素敵なお城の門にたどり着いた。シンデレラの城みたいな尖った屋根がいくつも連なる、ヨーロッパの建造物だ。オレンジ色の空には虹がかかっており、ファンファーレが鳴り響いている。お祭りだろうか。何かの記念日だろうか。妙に華やかな雰囲気だった。
ギギイと音がして、厳かに門が開いた。槍を持った門兵が気をつけをしている。薔薇が咲き乱れる庭が見え、敷石が長く連なる先に、お城の玄関が開いていた。
夢の国だぁ。
入りたいと思った。そのお城の中には、望む幸せが詰まっているような気がした。
けれど、門をくぐる第一歩がなかなか出なかった。ためらいがあるのだ。わたしみたいな庶民が、こんな異国の素敵な城に入るなんて。
あ。
人影が見えた。
開いている玄関の奥から、何かに乗って人が近づいてくる。かなり大きなものに乗っているようだが、一体何だろう。
最初に王冠が見えた。王様だろうか王子様だろうか。その人物の顔を見たいと思い、思わず一歩、踏み出した。
その時、光がさした。人物が乗っている謎の乗り物が美しく浮き上がった。
乗り物じゃない、あれはベッドだぁ。
素敵なベッドだ。ベッドが滑るように玄関から外に出ようとしている。
そして、王冠を被った人物は、ベッドに乗ってこちらに手招きしたのだった。
「はい、どうぞ、お客さん」
と、「彼」は言った。聞き間違えたかと思ったが、確かに「彼」は、フレンドリーに仰ったのだ。
夢の国のお城から現れた王族ならば、もっと近づきがたいものではないのか。「近う寄れ」とか「おぬしは何者ぞ」とか言いそうなものだ。
「彼」の顔が、もう少しで見えそうだ。
そして「彼」は言った。
「どうぞ、はい。お客さん、終点です」
ぷしゅー。
バスの扉が開く音が遠くで聞こえた。
あれっと目を開いたら、運転手さんがのぞき込んでいた。ええっと飛び起きた。窓の外は冬の海で、明らかにそこは目的の土地ではなかった。
乗り過ごした。
(やっちゃった)
不足料金を支払い、その見知らぬ土地に降り立つ。バスが走り去ってゆくのを見送った。
堤防の階段を上ると、風が強く当たる。コートがばさばさとあおられ、一瞬、息を止めた。
波は荒かったが、ここの砂浜は広い。ずっと離れたところにテトラポットが積まれている。そこにさえ近づかなければ、浜に降りても問題なさそうだった。
降りてみると、砂はじっとりとしており、靴がめり込んだ。ざくざく歩きながら、どんよりした空と、その下で荒れる海を眺めた。
何という名の島なのか、小山のような岩が海の中にそびえている。まるで絵ハガキになりそうな風景だわと思っていたら、案の定、スケッチをしている人がいた。
何人だろう。真っ白な髪を後ろに束ねている。赤いコートに黄色いジーンズを合わせていて、見るからにヨーロピアンな感じだ。
スケッチをしているお爺さんの前を通り過ぎ、当てもなく歩いた。
まず、スマホを使って次のバスの便を探さなくてはならない。目的の町にたどり着き、予約した宿で休むのだ。
スポーツバッグは重かった。堤防の一番下の段に腰を下ろし、コートのポケットからスマホを取り出す。調べ出してすぐに絶望した。バスの便は一日に二度しかなく、次の便は夜だった。これでは予約の宿にチェックインできない。
電車など、他の交通機関を探してみるが、どれも絶望的だった。長距離バスなんだから、もっとメジャーなところが終点になるだろうにと思ったけれど、これが現実だ。どうにも仕方がなかった。
(あと少しで結婚するはずが、結納直前で逃げられたみたいに、予想のつかない仕方のないことが起きてしまう)
人生、何事もスムーズにいかない。気分転換にと思った旅なのに、しょっぱなから悲惨なことになった。
取り急ぎ、予約の宿にキャンセルの手続きをした。当日キャンセルだから、手数料が取られてしまうがこれも仕方がない。
次に、ここで今晩泊まるところを探さなくてはならない。スマホで宿を検索してみたが、なかなか見当たらなかった。どうしよう。まさか野宿するとか。
ああ。それにしても、疲れた。
ざざん。ざざん。
荒い波音が子守歌のようだ。物凄い風なのに、決して温かくはないのに。
(きっと、遭難ってこんな感じだぁ)
体育すわりをして、腕を組んだ中に顔を伏せた。少しで良い。休もう。そうしたら名案が浮かぶかもしれない。
「幸せを夢に見られても困るんだよ」
別れた恋人の捨て台詞が耳元で蘇る。幸せよ、お前はなぜこうも遠い。ざざん、ざざん。眠りには抗えない。
眠りの中に逃げてしまえば、楽になれる。
そしてわたしは意外に物凄くよく眠り、次に目を開いた時は、辺りはぞっとするほど暗くなっていたのだった。
お嬢さん。お嬢さん。
耳元で優しい声が囁く。お嬢さんてわたしのことか。いやあ照れる。三十路になろうとしているのに、お嬢さんだなんて。
耳元の、ちょっとイントネーションが変わった声は、はっきりとこう言った。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
今度こそ、はっきりと目を覚ました。はっと顔を上げると、あの、絵描きのお爺さんがしゃがんでのぞき込んでいた。ふわんと薔薇の香りが漂う。夜目にも鮮やかなカラフルな出で立ちと、彫の深い顔だ。
夜になっている。
海は、昼間見た時よりずっと近くに来ていた。波音も激しくなっている。
「ここにいたら、海に沈んでしまいますよ」
と、お爺さんは言った。それから心配そうに「お嬢さん、旅行の人ですか。泊まるところ、ありますか」と聞いた。
握りしめていたスマホを見ると、時刻は夜の七時を過ぎている。
もたもたと立ち上がり、服の砂を払った。このお爺さんこそ、一日中スケッチをしていたのだろうか。それで、わたしが眠りこけているのを見過ごせずに、帰り際に声をかけてくれたのか。
「いえ、今から探すんです」
わたしは泣きそうなのを堪えながら答えた。
お爺さんはじっとわたしを見つめ、少し考えている様子だった。「良かったらうちに泊まりますか」と、言われた時、何故か頭の中で、バスの中で見た夢のお城の門が浮かんだ。
ファンファーレと共に、門が開く。現れた美しい夢の城。奥から近づいてくる神々しいベッドと、王冠を被った人。
ああ、わたしはどうして踏み出すことができなかったんだろう。わたしなんかが、その夢の国に入ってはいけないような気がして。
わたしはどうかしていたのかもしれない。
普通なら、初対面で、しかも見た目的に相当奇抜な方のお宅に泊まらせていただくなど、思いもよらないことなのに。
「いいんですか・・・・・・」
まあ、他に方法がないのもある。
目の前のお爺さんは、ちょっと変わった感じではあるけれど、下心や、怪しさはなかった。ちょっと不思議なイントネーションも、素朴で一生懸命な感じがしたし、何より心からわたしを案じてくれているように思われた。
「泊まり込みのお手伝いさんがいますし、部屋もありますから遠慮なく」
お爺さんはそう言い、よいしょと重たそうなバッグを担いだ。薔薇の香りに混じり、絵の具の強烈な匂いがした。
すぐそこにうちがありますから、と言って歩きかけたお爺さんに、「絵をお描きになっているのですね」と言ってみた。お爺さんは振り向くと、「画家ですよ」と簡単に答えた。
そこに何ら力みはなく、まるで「そこの工場で非常勤で働いていますよ」と言っているようだった。
果たして、本当にすぐにそのお宅に着いたのだが、思わず二度見してしまうような素敵な洋館だった。そして、表札の名前を見て、腰を抜かしそうになったのだった。
わたしの記憶が間違っていなければ、この人は有名な画家の先生だ。
嘘だぁ。
呆然とするわたしの前で、お爺さんはインターホンに向かい「帰りましたよ」と言った。間もなく門は自動で開き、素敵なお宅の玄関が目の前に現れたのである。