フランスベッドのようなひと 第2章: フランスベッドのようなひと

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カヴァース小説部

第2章: フランスベッドのようなひと

 (正夢って本当にあるんだな)

 奇跡に感動し、きゃあきゃあ嬌声を上げても良いくらいの状況である。今のわたしは眠くて疲れていて、全体的にぼうっと霞がかかっていた。何が起きてもボンヤリ受け入れてしまうかもしれない。

 蓬莱ツナグ氏のお宅の、素敵なお台所に通されダイニングセットに座った。お手伝いさんらしい、優しそうなおばさんが食事を出してくれる。どうぞと勧められたそれは、白米に味噌汁、焼いた鮭とホウレンソウのお浸しだった。ついでに、湯呑に入った番茶がことんと置かれる。

 蓬莱氏は食事を始めていた。こんな、ヨーロピアンな外見をしているのに箸を使って焼き魚を食べておられる。

 わたしも箸を取った。汁も、おかずも、家庭的で美味しいものだった。何ら贅沢ではなく、当たり前の普段の食事が、これほど美味だとは。

 

 「お風呂もどうぞ」

 と勧められ、遠慮なく使わせていただく。品の良い広々としたユニットバス。そこで足を伸ばして温まり、すっかりくつろいで出てきた。

 

 「何かご事情がおありなんでしょうけれど、どうぞ遠慮なく休んでくださいね」

 風呂から出ると、お手伝いのおばさんがパジャマを持って待っていた。真新しいリネンのパジャマだ。これを使ってくださいと言われたので、流石に後ろめたかった。ここまでしていただくなんてと思った。

 「この土地は本当に便が悪くて。年に一度くらい、貴女のような道に迷ったり、駅を間違えてお困りの旅行者の方が、うちに来られるんですよ」

 にこにことおばさんは言った。「だから遠慮なく」

 お部屋まで案内しますと言われ、おばさんについて歩いた。

 通路の壁に飾ってある絵は、どれも蓬莱氏の作品らしい。

 「海の絵ばかりでしょう」

 おばさんは言った。

 「先生は、海の絵を好んで描かれます。それでここに家を作られたんです。今日も朝からずっと堤防でスケッチをしておられました。たまたま貴女を見かけられたんでしょうね。これも縁でございましょう」

 客室に案内された。扉を開いて息を飲んだ。

 ああ。

 その、ベッド。

 こういうベッドで、休みたかった。ずっと、ずっと、このベッドを求めていたような気がする。

 その部屋には、居心地良さそうで、すぐにでも飛び込んで休んでしまいたいくらいのベッドがあった。そっと荷物をカーペットの上に降ろし、ベッドに歩み寄る。しっかりとしたベッドだ。そっと手で触れ、軽く体重をかけてみた。とても頼りがいのある感触が返ってきた。

 おいで。いいよ。

 ベッドが、そう言ったような気がした。

 「疲れておられるんでしょう、どうぞ」

 おばさんは言い、床頭台にパジャマを乗せた。あとで飲み物を持ってきますから、くつろいでくださいねと言い、おばさんは部屋から出た。

 パジャマに着替えてしまうと、もう待ちきれなかった。どぼんと音がしそうな勢いでベッドに飛び込んだ。ベッドは、わたしをしっかり受け止めてくれた。間違いなく良いベッドである。ぐにゃんと頼りなく沈み過ぎることもない。このマットは最高だった。寝そべると、あまりの快適さに涙が溢れそうになった。

 ああ。

 これだ。

 こういうところでなら、わたしは思う存分、休むことができる。

 しかしこのベッド、どこで売られているんだろう。さぞかし高級な、それこそ外国製の凄い値段のお品なのでは?

 妙に気になった。それで、ベッドのあちこちを眺めてみた。フレームの側面に社名が見える。フランスベッド。

 フランスベッド。

 知っている。多分、日本人なら誰でも知っている名前だ。超有名な社名である。

 フランス。フランスベッド。

 口の中で繰り返してしまった。この、あまりにも寝心地の良いマットレス。品がありながら、親しみやすいフレーム。フランスベッドという言葉を繰り返していると、夢のお城の中の寝室にいるような気がした。ああ、これは夢かもしれない。もしかしたらわたしは今もまだ、あの寒い海辺に座って寝ていて、満ち潮に沈みかけているのかも。

 その時扉がノックされた。おばさんが飲み物を持ってきてくれたのだ。

 ベッドに腰かけ、ホットワインを頂いた。いかがですかと聞かれたので、美味しいです、と答えた。おばさんはにっこりした。

 「こんなにまでしていただいて。わたし、ずっと休みたかったんです」

 お酒を口にしたからか、言葉がほぐれた。安心のために、ずっと自分を押しとどめていたものが流れてしまいそうだ。ぺらぺらと、わたしは言った。

 「破談になってしまったんです。結婚を夢みたいに言っているわたしに嫌気がさしたんだそうです。それで仕事に逃げて、くたくたに疲れてしまって。有休を貰って旅行したんですが、バスの中で寝てしまって駅を間違えて。ずっと、安心できる、温かいところで休みたかったんです。今夜、わたしきっと、よく眠れると思います」

 涙が出てきそうだが、それは堪えた。

 おばさんはにこにことして、そっとわたしの隣に座った。二人分の体重がかかっても、ベッドはしっかりと受け止めてくれている。

 なんて頼りがいのある。

 なんて優しい。

 ああ。

 (わたし、フランスベッドみたいな人と結婚したい)

 「これ、フランスベッドなんですね。フランスの会社で作られたベッドなんですよね」

 と言ったら、おばさんはふふと笑った。フランスベッドは、日本で生まれた日本の会社ですよと教えてくれた。

 「さ、さぞお高いんでしょうね」

 と、おののきながら聞いてみると、「家具通販で売られていますし、この通り、良いマットレスですから、快適に休みたいと思われる方なら購入を検討されるのでは」と、返ってきた。

 

 家具通販でフランスベッドか。

 また見てみよう。

 「先生が、このベッドがお好きで。どうぞ、よくお休みください」

 おばさんは言うと、そっと立った。

 

 「夢を持つのは素晴らしいことですよ。結婚を夢見て、何ら間違っていないと思いますよ」

 おばさんは優しく言うと、部屋から出て言った。

 

 夢みたいな、結婚。

 ホットワインを飲みながら、自分に問いかけてみた。

 あの、逃げてしまった恋人。彼が逃げていなかったならば、あの人と、夢に描く結婚生活を送ることができただろうか。彼との生活は幸せだっただろうか。

 

 ドライで、どこか刹那的で、つきあっていた頃はそこが良いと思っていた。彼は、あまり生活の仕方に拘らない人だった。

 今、わたしは思う。彼はまるで、折りたたみベッドみたいな人だと。

 (ううん。折りたたみベッドに失礼だ。あれはまるで、板張りの床に直接布団をしいたみたいな人だ)

 馬鹿みたいじゃない?

 わたしは、床に布団をしいて寝たいわけじゃない。しっかりと受け止めてくれるマットレスで、じっくり疲れを癒したい。

 あんな、煎餅布団男に逃げられたからって、仕事に逃げて体や心を壊すなんて。

 

 ワインの最後の一口を飲み干した時、つっと温かな涙が伝って落ちた。

 それは濃い涙だった。辛さや情けなさ、恥ずかしさ、色々なやるせない思いが凝縮した一粒だったのかもしれない。

 けれどそれを流してしまった後は、ただ純粋に、休みたい、休んで元気になりたいという本能の欲求が押し寄せてきた。

 ベッドにもぐりこんで、幸せな眠りを味わう。

 わたしにも、夢見るような幸せを手に入れる権利はあるのだ。

 フランスベッドは、わたしをそのまま受け止めてくれた。どんなふうに寝がえりを打っても大丈夫だ。このベッドなら、あるがままのわたしを受け入れて、休ませてくれる。

 眠りのトンネルが迫ってくる。

 長い、長い安らぎのトンネル。

 このトンネルを潜り抜ければ、きっと、明日は眩しい光に満ちている。わたしは元気になるだろう。


 フランスベッド。

 かつて日本人は、フランスに夢を見た。そこには憧れの生活がある。その生活を夢見た。

 (夢見ることは間違いじゃない。夢は実現する)

 憧れの国、フランスの名を頂いたフランスベッドが、こんなに快適で、理想の睡眠を実現してくれているのだから。

 

 長くて、濃い睡眠だった。

 癒しの温もりに包まれ、生まれ変わったみたいな気持ちで目を覚ました。部屋には朝日が入り込み、お気に入りのベッドはますます美しかった。

 うんと背伸びをすると、体は気持ちよく動く。心は軽やかになり、さあ今から一日が始まるぞという勢いが溢れていた。

 ああ、愛しのベッドよ。

 ありがとう。本当に、ありがとう。

 着替えてしまってから、カーテンを開いた。窓を開こうとしたが、庭に人がいたのでーーしかも、何故か半裸でムキムキの筋肉を晒していたのでーーすばやくカーテンの引き戻して身を隠した。何だあのムキムキマンは。白い髪の毛を後ろでまとめ、下半身は鮮やかなオレンジ色の細いジーンズに包んでいる。上半身を冷たい朝の空気にさらし、彼は乾布摩擦をしていた。

 蓬莱先生だった。

 何をしていらっしゃるのか。ご老体に毒ではないのか。いやそれにしても、あの体つきは老人のものではないぞ?

 ノックされ、おばさんがお茶のポットとカップが乗ったお盆を持って入ってきた。休めましたか、と言われたので、「はい、とっても」と答えた。おばさんは窓の外をちらっと見て、ふふっと笑った。

 「先生の日課ですよ。驚かれましたか」

 「かなりご高齢ですよね。見事な白髪でいらっしゃるし。ほんとにお元気で」

 わたしは言った。おばさんは一瞬、変な顔をした。なにかこらえる様な顔をしていたが、ついに「ぶ」と噴出した。何だろう、わたし何か変なこと言っただろうか。

 「お嬢さん、勘違いをなさっていますよ」

 おばさんは笑いながら言い、お盆をナイトテーブルに置いた。

 「先生は、ああ見えてまだ三十代です。あの髪の毛は、わざわざ染めたんですよ」

 えええ?

 素っ頓狂な声をあげてしまい、わたしは思わず口に手を当てた。

 何だと、三十代?

 蓬莱ツナグ氏って、そんなに若かったっけ。

 「お嬢さんは多分、先生のお父様と間違えておられるんです。うちの先生は、蓬莱ツナグ氏ではなく、その長男、蓬莱シイラ氏です。ツナグ先生は、今はヨーロッパにお住まいです」

 ふえええ。

 また変な声が出てしまった。

 お宅の門にある表札には、「蓬莱」としか彫られていなかった。油絵画家で蓬莱と言えば、蓬莱ツナグ先生だと思い込んでしまったのだ。

 そう言えば、蓬莱シイラという名前も聞いたことがある。父に劣らず優れた才能を持った人だ。

 「そうなんですか。日本人離れしたセンスをお持ちですよね」

 やっとのことでわたしは言った。

 おばさんは笑った。

 「れっきとした日本人でいらっしゃいますよ。ツナグ先生も、うちの先生も」

 

 昨夜いただいた食事を思い出す。湯気の立つ美味しい白ごはんと、お味噌汁。焼き魚とおひたし。

 いただきますで始まり、ごちそうさまで終わる日本人の食卓。

 「ごく気さくな方ですよ」

 おばさんは言った。

 朝食においでくださいませ。

 おばさんはそう言うと、部屋から出ていった。

 窓の外では、わざと白髪にして芸術家っぽい見た目を作っている蓬莱先生が、乾布摩擦を終えて中に入ろうとしておられる。

 眼鏡をはずした横顔は意外にイケメンで、なぜかわたしはドキリとしたのだった。

 有名な画家先生なのに、若い。

 凄い才能を持っているのに、気さく。

 まるで、フランスベッドみたいなお方だ。

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