へそまがりの美しきカーブ 序章: “ふさわしい”夢
【連載】へそまがりの美しきカーブ - 秋田木工のチェアから学ぶ人生 -
- 【第1回】 へそまがりの美しきカーブ 序章: “ふさわしい”夢 ←今回はココ
- 【第2回】 へそまがりの美しきカーブ 第1章: 必要だからある曲がり道
- 【第3回】 へそまがりの美しきカーブ 第2章: アキタコマチは、固い馬
- 【第4回】 へそまがりの美しきカーブ 第3章: 曲がることを許す
- 【第5回】 へそまがりの美しきカーブ 終章: 幸せにつながる曲線
序章: “ふさわしい”夢
「曲木」。
それは、まっすぐで固い木を、自由自在に美しく曲げる技術である。
木は、優れた職人の手で曲げられることで、より美しくなる。
人の生活を豊かにするためには、ゆったりと適宜に曲がった木が必要なのだ。
わたしはその椅子が、大好きだった。
その椅子は、幼かった時も、成長して大人になった今も、しっくりと体に馴染むのだ。まるで、わたし自身に寄り添い「これでいいのだよ」と、肯定してくれるかのように。
国体選手の多くは、ごく幼いころから馬に乗り始めている。
早い人は、まだ幼児の頃から。遅くとも、小学生のうちに、乗り始める。例外的に、高校の馬術部で初めて馬に触れたが、思いのほか体に合っていて、どんどん頭角を現した、という人もいるのだが、そういう人にしても、幼いころから親の期待を背負い、馬に乗り続けた人には叶うまい。
馬は、人を選ぶ。その人が馬乗りに相応しいかどうかと、馬の方が瞬時で感じ取る。
またがった瞬間から、人と馬の関係は決まっていると言ってよい。
例えそれが、無邪気な子供であろうと、人生経験のある大人であろうと、馬にとっては関係がない。
(クラブに入った時、三十路前すれすれだったもんな)
今、わたしは、馬術を諦めることを決めた。これは、今までも「そうしなくてはならない。人生のためにも」と何度も思ってきたことである。馬を続けるのには、お金がかかる。そのお金を馬に当てることができる人のみ、続ける権利がある。
才能だけで馬に乗り続けている人も、中にはいる。
けれどそれは、本当に幼いころから馬に乗り続け、その道で栄光を掴むことを誰からも期待される立場の人である。
馬に乗るために、お金の階段をかけのぼることを、当然だと思うことができる恵まれた人である。
わたしは、そう思う。
あるいは、僻みからくる歪んだ考え方なのかもしれないが、ごく一部の限られた条件の人でなくては許されないということは、真実の一部を鋭く突いているはずだ。
(わたしは、わたしの人生に戻らねばならない)
馬に乗るための時間が欲しいので、正社員ではなく、時短のパートをしている。
その少ない給料の大半を馬にあてがう。そんな日々を永久に続けるわけにはいかなかった。
夢には種類がある。
自分に合う夢と、合わない夢。
これは、綺麗ごとでは片付かない。神様は、きちんと理由があって、この人にはこれは相応しくない、この人にはこれが相応しい、と、道を定めているようだ。
その道を、受け入れられた時、人間は自分の人生を幸せにすることができるのだと思う。
だけど、受け入れるのは容易なことではない。
夢には、中毒性があるのだから。