おうちに帰ろう 第3章: 飲み屋のプリンス

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カヴァース小説部

第3章: 飲み屋のプリンス

その日は本当に最悪だった。
 
入社して四か月目。やっと、こまごまとしたことを覚え始めた感じだ。
コピー機を使っていると、紙が切れた。あれ、コピー用紙を取りに行かなくちゃ、と思った。しかし、コピー用紙の保管場所がどこなのか自分が知らないことに気づいた。
オフィスには、いつもびしばしと指導してくれる、怖いお局の聖子さんは不在だった。
加納チーフは外に出ていて、いるのはまりかちゃんとみりなちゃんだけだ。二人は何か、仕事のことで話し合っている。こんなふうに話し込んでいる時、なかなか入っていけないものだ。しかし、聞かねば分からない。

「あの、コピー用紙はどこにありますか」
三回くらい聞いたら、「は」と、聞き返された。いかにも邪険な様子ーーに、見えてしまった、本当はそんな気はないんだろうけれどーーだったので、わたしはひるんだ。少しどもりながら「コピー用紙、切れてしまったから」と言うと、「はーん」と、まりかちゃんは言った。

「前教えなかった。あそこよあそこ」
みりなちゃんは乱暴ーー‎に、聞こえてしまったーーな調子で吐き捨てた。
教えてもらっただろうか、と、呆然と立ち尽くしていると、まりかちゃんが面倒くさそうに立ち上がって「あそこ、ほら、あの引き戸の」と、オフィスの隅を指さした。それで、わたしは用具置き場に向かって歩き出したのだが、背後から「教えても教えても忘れるんだからっ。だから前のとこ辞めたんじゃない」という、陰口が聞こえてきて、ぐっとこらえた。

いや、教えてもらったことは確かにない。
唇を噛みながら引き戸を開いたら、確かにコピー用紙の箱があった。そこからA4のコピー用紙を出し、コピー機に入れた。
席に戻った時、聖子さんが戻ってきた。手には書類を持っていて、おもむろにコピー機を使い始めた。事件は、そこで起きた。

「ねえ、この紙入れたの誰」
鋭く聖子さんは言った。
「なんで裏紙のところに、まっさらのコピー用紙が入ってるの」

わたしは固まった。確かにわたしは紙を入れたが、そのトレイには裏紙は入っていなかった。最初から白い紙だったではないか?
(もしあれが裏紙用だとしたら、わたしの前に紙を入れた人が、適当なことしたんだ・・・・・・)

裏紙用か、裏紙用じゃないか、入っている紙を見て確認するしかないじゃないか。わたしみたいな新人社員は。
 
「榊原さん入れたよね」
みりなちゃんは言った。
ゆっくりと、聖子さんが振り向いた。困った顔をしている。
この頃わたしは気づいたが、聖子さんはかなり、わたしを気にかけてくれている。なるべく嫌な目に合わないように庇ってくれていて、それ故に口うるさくなっている。今だって、決してわたしを追い詰めたかったわけじゃない。

「ねー、どこに紙入れるのかわかんなかったら、聞いてくださいっ」
ヒステリックな調子で、まりかちゃんが言った。
「いつも言ってますよね。わからなかったら聞いてください。お願いですからっ」

言葉が詰まっていた。
言いたいことが言えない苦しさが胸に込み上げる。
聖子さんが、「下から2番目はね、裏紙のトレイなの。これで分かったわね」と言い、紙を入れなおした。それで、この件は終わりになった。

うつむいて涙をこらえていた。あと三十分で定時になる時間帯だったのが、せめてもの救いだった。
帰ろう。帰ろう。心の中で繰り返して、その場をやりすごした。

定時となった瞬間、立ち上がると、誰にともなく「お疲れさまでした」と言い、逃げるようにオフィスを出た。通路を走りながら涙が溢れてきた。

「あれ、榊原さ・・・・・・」
外から戻ってきた加納チーフとすれ違ったが、挨拶する余裕もなかった。
わたしは町の中に出ると、手で涙をぬぐいながら歩いた。


フランスベッドの待つ部屋に戻りたいのはやまやまだったが、とびきり嫌なことがあった日は、気分を直してから自分の領土に戻りたいものだ。
外でつけられた澱みをある程度振り払ってからじゃないと、聖地が穢れてしまう気がするではないか。

そういうわけで、わたしはまた、行きつけの飲み屋に入った。早い時間過ぎて、ちょうどおやじさんがのれんを掛けたところだった。わたしの顔を見ると、おやじさんは何も言わずに店の中に入り、黙ってカウンターに、突き出しをお冷を置いてくれた。
今日の突き出しは、大根サラダだ。

「ビールちょうだい」
もはや泣いた声でわたしは言った。おやじさんは無言のまま、ビールを出してくれた。
今日は、山田君はいないらしい。良かった、また占いに誘われかねないじゃないの、こんな顔をしていたら。

「おやじさん、なんでもいいから、肴」
泣きながらわたしは言った。

開店したばかりで迷惑だと分かっているけれど、誰かに甘えたかった。おやじさんは無言のまま、焼き魚とフライドポテトを出してくれた。ぽたぽたと涙を零しながら、食べて飲んだ。昼間の嫌な場面がフラッシュバックしてきたが、咀嚼し、冷たいビールで流し込んでいると、嫌な記憶が薄れた。
 
少し落ち着いてきた時だった。
誰かが、そっと横に座った。

(なによ山田。近すぎるわよ)

睨みつけてやろうと思ったが、そこに座った人を見て、わたしは唖然とした。
加納チーフが、その端正な横顔を見せながら、カウンターの中に向かい「おやじさん、熱燗と定食」と言っている。わたしと目が合うと、加納チーフは少し笑った。ちょっと、決まり悪そうだった。

「榊原さんも、この店来るんですね」
敬語でチーフは言った。その敬語が嫌なんだと、わたしは内心毒づいた。

「早いですね。残業ないんですか」
わたしは言った。皮肉を込めたつもりだったが、加納チーフは柔らかく流してくれた。
 
おやじさんが熱燗と料理をカウンターに置いた。きゅっとお酒を飲んでから、加納チーフは言った。

「俺は男だし、女の職場の中のことは相談しにくいと思うけれど、見てないわけじゃないですよ」
 
ぎゅっと喉元に何かが込み上げた。やっとおさまった涙がまた戻ってきた。余計なことを言わないでよ、このヘタレ男。

「榊原さん来てくれて、俺は嬉しい。榊原さんは真っ当な仕事してるし、電話の扱いも丁寧で。お客さんから評判いいんですよ、実は」

もう、こらえきれなかった。顔をそむけて涙を拭っていると、頭をぽんぽん叩かれた。ぎょっとして見上げたら、それは加納チーフではなく、おやじさんだった。
ほっとしたような、期待外れったような、変な気分になった。おかげで涙が引っ込んだ。

「岡田さんと園部さんから話を聞いたし、高田さんからの意見も交えた。高田さん、きちんと見てくれているから。その場で、高田さんから岡田も園部も説教されてたよ」
 
そらちゃん、エビフライつけとくよ。
おやじさんが、どかんと不愛想にお皿を置いた。泣けてくるじゃないの、この。

「だから、俺に何でも言って。こうしてほしいってのも含めて」
加納チーフはそう言い、ちょっと照れたように髪の毛に手をやった。
わたしは顔をごしごしとこすった。泣いている顔をこれ以上見られるのは嫌だった。

「敬語はやめていただけないでしょうか。加納チーフにお話しにくくなってしまって。すいません」
それだけ言うのがやっとだった。
加納チーフは「ごめん」と言った。そして、気弱そうに笑った。

「敬語、クセなんですよ。決して、年上だからとかそういう気持ちで使ってるわけじゃない。俺は、榊原さんに企画を任せたいし、それができる力を持った人だって分かってる」

ぐっとお酒を飲んだ。ヘタレ男子みたいに見えるけれど、意外にお酒が強そうだ。
加納チーフは言った。

「気を悪くしないで欲しいけれど、榊原さんが前の会社、どうして辞めたのか、人事から聞いた。っていうか、榊原さんの前の会社に知り合いがいてね」

決して、仕事ができないからいられなくなったわけじゃない。
仕事ができるからこそ、辞めざるをえないところに追い詰められてしまった。
榊原さんが、どんなに活躍していたか、聞いて知っている。あなたの、本当の姿を、俺は分かっている。

呆然とするわたしに、加納チーフは頷いた。

「俺らのオフィスは、榊原さんの居場所だ。ここは、派閥もないし、仕事を出来る人を妬んで追い出そうとする人もいない。だから」

ぽろっと涙がこぼれた。
加納チーフは、また照れたように目を泳がせながら、ティッシュボックスを取ってくれた。

「仲間になるには時間が必要なんだ。でも、その時間は絶対に無駄じゃないから。だから、榊原さん」

居て欲しい。
俺たちの場所に。


飲み屋のプリンス。
そんな言葉が頭の中をよぎる。

まさか、あんな小さな飲み屋に加納チーフが来るなんて。しかも常連だなんて。
世間は狭い。

気持ちよく酔って、最後には加納チーフとプロ野球の話題を楽しんで、だいぶ遅くなってお開きになった。
なんだか「こんどまた」と聞こえたような気がするが、耳のせいだったかな。

月夜の町を歩いて帰り、うちに行きついた。
変わらずフランスベッドはわたしのオアシスで、「お帰り、今日も大変だったね」と迎えてくれる。
ばたんと頼れるイケメンのようなマットレスに倒れ込んだ時、ふっと「そう言えば、裏紙用トレイに白い紙入れるような奴って、チーフくらいしかいないじゃん」と気づいたが、もう特に腹を立てることもなかった。

わたしには、オアシスがある。
飲み屋と、それから、フランスベッド。

(もう、それで十分じゃない)

ぽろっと名残の涙が落ちたけれど、フランスベッドが優しくそれを拭ってくれた。

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