おうちに帰ろう 第2章: なんじ、良き寝床で休むべし

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カヴァース小説部

第2章: なんじ、良き寝床で休むべし

不愛想なおやじさんだけど、わたしのことを「そらちゃん」と呼んでくれる。この居酒屋はわたしの隠れ家だ。
三か月前、再就職したという報告をおやじさんにしたら、一杯おごってくれた。せっかくの祝杯だったのに、わたしはこんな体たらくだ。

おやじさんは、特になにも言わない。こんな時間に早々と一人で飲み屋に来て、うかない顔をして、わたしが新しい職場でうまくいっていないこと位、一目瞭然だろう。
店にはお客がまだいなかった。カウンターで突き出しの酢の物をつついていたら、「あれっ、榊原さん」と呼ばれた。横を見たら、黒いパーカーに、黒いジーンズの、全身黒ずくめの変な男がビール片手ににこにこ笑っていた。

いつの間に座っていたんだろう、この人。
なぜわたしの名を知っているのか、と首を傾げていると、「や、忘れちゃったの、僕、山田だよ。ほら高校時代の」と言われて、あっと声を上げた。
おやじさんがカウンターの中から「センセ、そらちゃんと同級生なの」と言った。センセというのは山田君のことらしい。しかし、山田君が学校の先生をしているとは思えなかった。

「僕さあ、僕さあ」
怪しい出で立ちのくせに、やけに人懐っこく、山田君は笑っている。黒い指なしの手袋をした手で紫の布に包んだものを取り出してテーブルに置いて見せながら言った。
「このお店で副業させてもらってんの。ここでお酒飲んだ人に、格安で占ってあげてんの。これ、タロット。当たるの、僕」

はあー。
相槌を打つ暇もなかった。おやじさんが、から揚げとビールを出してくれる。
占い師。同級生が。

「本当に当たるよ、センセの」
おやじさんは、ぶすっと言った。
それは占ってもらえということだろうか。とりあえずビールを飲んだ。そして、まだ占って欲しいと言っていないのに布からタロットカードを取り出して、いきなりテーブルの上に広げ始めた山田君を眺めた。

「副業しないとさあ。今時せちがらくて、僕んとこの小企業なんかさ、残業もできないの。だからさ、特技いかして副業してんの、ねっ」
なにが「ねっ」だか、山田君はにこにこと愛想よく、わたしを見た。
「榊原さん、今、お酒のんだろ。2000円でいいから、なんでも占うよ。ちょうど今、人いないし」

2000円でいいから、だと。
高い、と言いかけた時、既に山田君はカードをシャッフルし始めていた。ちょっと勝手に何してんだよ、と、ぶつぶつ言いかけたら、人が変わったようなきらっとした目つきで「ははあん、職場のことで悩んでるね」と山田君は言った。
カウンターの中では、おやじさんが「ほーら」という顔で、こちらをチラ見している。

しゃっ、しゃっ。
カードを丸く両手で回しながら、山田君は言う。
「で、どうしたい。何占う。この職場を辞めるのはいつ頃とか。続けたいなら、人間関係好転の鍵は何かとか。自分の問題点とか。ほらほら、遠慮なく」

金払わせて、何が遠慮なくだ。
しかし、もう断ることはできそうになかった。仕方なくわたしは「辞めたくはないよ」と答えた。その時、カウンターの中のおやじさんが、ちょっと微笑んだような気がした。

「人間関係はさ、うーん、良いのか悪いのか。まあ良くはないけれど、それはわたしがまだ再就職したてで、溶け込めてないからだと思う。基本、みんないい人なのかな。派閥とか、わけのわかんない足のひっぱりあいとか、なさそうだし」
そうだ。派閥やいじめのある環境は、こんなもんじゃない。
わたしは、それを嫌と言うほど知っている。だから、今の職場がそういう類の環境ではないことは、分かっている。分かっているのに、こんなに辛い。

「わたしはさ、楽しく当たり前に仕事がしたいの。この会社を、わたしの場所にしたいの」
不思議なことに、どんどん思いがまとまってゆく気がした。
喋りながら、まるで暗示にかけられているかのように、そうだ、わたしは仕事がしたいのだと思い始めていた。
「けれどね、若い子たちって残酷じゃない。あとさ、小さいどうでもいいルールとか、そんなの分かるわけないっていうか」
愚痴も出てきた。
山田君は黙ってシャッフルを続けている。何を占って欲しいのか、まだわたしは言っていない。

「そう。わたしはね、この果てしない辛いトンネルが、終わって欲しいの。いつ終わるのか教えて欲しいの。終わるまでどうすれば持ちこたえられるか知りたいの」

きらっ。
山田君が目を上げた。射られた、と、わたしは思った。
しゃっ。しゃっ。素早く山田君はカードを集め、綺麗に重ねた。重なったカードをわたしの前に出すと、「三つに切って」と言った。その通りにしたら、山田君は器用な手つきで三つあるカードの束を重ねなおして、さっさっとテーブルの上に並べた。

「これがね、榊原さんの過去」
一見して悪魔のカードだと分かる、怖そうな一枚をさして山田君は言う。
「あー、相当酷かったみたいだね。この環境、過去のところに出てるとしたら、昔、すごくきつい時期が長く続いたんだよね」
 
(前の会社のことに違いない)
ビールに酔い始めた頭で、わたしは思った。

山田君は続けて二枚目をめくった。
「これは現在。あれ、運命の輪が出てる。ということは、転職したんでしょ。良かったよ。前のところの環境に居続けたら、大変なことになってたから」 軽い調子で山田君は言った。わたしは黙りこくってビールを飲んだ。

「で、これが未来のカード。うん、悪くないんだけど、もう一歩がね、ちょっと」 思わせぶりなことを言いながら、次々と他のカードをめくった。そして、ウーンとうなってから、山田君はわたしの顔を真顔で見つめたのだった。

「はい、結果言うね。トンネルはまだ終わりません。時期はだいたい一年後くらいかな、ちょうど環境に溶け込んで仕事が面白くなってきた頃に、いつの間にかトンネルは終わる」
 
なんだよ一年後って。そんなに持たないよ。
占ってもらわなきゃよかった。占ってもらう前より辛い気分になっちゃったじゃない。

山田君は、続きを言った。
「トンネルを抜けるまでを乗り越える方法ならあるよ。カンタンなことだ」

なんじ、良き寝床で休むべし。

神の啓示を伝えるかのような調子で、山田君は言った。は、と、わたしは問い返した。もう一度山田君は「休む環境を整えなさいってことだよ」と言いなおした。はーん、と、わたしは生返事をした。何のことやら、だ。

しゃっ、しゃっ。
慣れた手つきでカードを片付けながら、山田君はビールを飲み始めた。
 
「榊原さん、真面目で一生懸命で、仕事できる人なんだよね。できる人だから、がんがん頑張る。うまくいってる時には問題ないけれど、周囲の人たちが良くない人ばっかりだったら、さんざん利用されたり、無理させられたりして、どんどん疲れてしまう。まあ、それがいわゆるトンネルなんだろうね」

真面目故のトンネル。
山田君は呟くように言った。
何か胸に染みるようだ。わたしもビールを飲んだ。体がほんのり温かくなっていた。

「今の会社は、幸い、搾取するような人はいない。今はうまくいってないっぽいけれど、時間が解決する。いきなりってわけじゃなくて、少しずつね、溶け込んでいって、だいたい一年後くらいには、のびのび自分らしく仕事して、周囲からも、さすが榊原さんだって言ってもらえる。それまで、暗いトンネルの影響は続く」

寝る場所をね、最高に良くして、思い切り自分を休ませてあげよう。 山田君は、そう言った。
「贅沢って思うかもしれないけれど、今の君は必要なことだから。自分だけのオアシスを、おうちの中に用意しておくの。これ、現実の荒波の中で戦って、何が起きても一晩で回復できる、秘訣ねー」

ロールプレイングゲームで、回復の魔法ってあるじゃん。そんな感じの場所を、自分のうちに作るんだよ。

いつの間にか、ビールを3杯飲んでいた。
おやじさんが「そらちゃん、そろそろ帰って寝な」と、言った。お客さんもぼちぼち入り始めている。

レジに向かおうとした時、「あっ、2000円」と、山田君が言った。妙にむっとしてしまった。なによ、勝手に占っておいて。
「同級生割引で、半額にしてください」
わたしは言うと、折りたたんだ1000円札をカウンターに置いた。山田君はにやにやしながらそれを受け取ると「ツケにしとくさ」と言った。

そらちゃん真っすぐ家に帰れよ、と、おやじさんが怒ったように言いながらレジを打った。


山田君の占いのせいじゃない。
自分に言い聞かせながら、今日もわたしは、くたくたに疲れて自分のアパートに帰る。実は、うちに帰るのが嬉しくてならない。会社から解放されるからってだけではない。前までは、会社での仕事が終わったといっても、また翌日には行かなくてはならないのだから、永遠にこの憂鬱が続くのだと思っていたものだ。
それが、今はどうだ。

山田君に1000円を払った日から一週間後、わたしは素敵なベッドを購入した。
それは、日本人なら誰でも知っている有名なメーカーのベッドで、良質で品格のあるものだ。
フランスベッド。
町を歩いていれば、どこかでそのロゴを看板に出した寝具店に出会う。昔からあるメーカーだ。けれど、まさか自分がそのフランスベッドを購入するなんて、予想したことはなかった。

オアシスが必要。
自分が自分に戻る場所が欲しい。
 
山田君の占いを受けてから、そればかり念じるように思い続けた。相変わらず会社では、まりかちゃんやみりなちゃんから、ねちねちと嫌みや悪口を言われている。呼吸するのも辛い感じだ。
ああもう限界、と思った日、ついにわたしはスマホで検索し、ネットでフランスベッドを扱うサイトを知ったのだった。
流石にちょっと考え込んだが、明日からのことを思うと、もういてもたってもいられなくなり、購入手続きに進んだ。

そして、今に至る。

「ああー、帰ってきたよ」
部屋に入りながら、愛しのベッドに呼びかける。ああ、わたしのフランスベッドよ。君は今日も変わらず、わたしのオアシスでいてくれる。
くたくたの心。緊張しているから、体はがちがちに固まっている。スーツを脱ぐ間ももどかしく、ベッドに飛び込んで転がる。わたしのフランスベッドは、いつだって受け止めてくれる。軽く軋む音は、よく帰ってきたね、頑張ってきたね、という言葉みたい。

わたしは時々、ベッドのスプリングの微かな音を聞きながら、ためておいた涙を零す。ほんの一粒、二粒零せば気が済む。ベッドが受け止めてくれるから、すぐに心は平坦に戻る。嫌な思いを引きずって、心が荒れて、もう逃げたくなるほど追い詰められずに済むのだ。

(買ってよかった・・・・・・)
フランスベッドのマットレスのスプリングは本当に素晴らしくて、ちょっと堅めな気はするが、それがわたしにとっては、頼りがいのある感じがするのだった。
(べちゃっとヘタレない。ほんとに、いいわ)
 
ヘタレるのはいけない。
マットレスも、男もそうだ。

ベッドに寝転びながら、ちらっとオフィスのことを思い出す。加納チーフのことだ。
29歳。若手でチーフ職になっている。仕事が出来てイケメンで。
「なんでも相談してください。まずは環境に慣れることからだと思って、決して無理しないで」
とか言ってるくせに、実際は、まりかちゃんやみりなちゃんにキャアキャア引っ付かれてニヤニヤして。

(ああいうのが、ヘタレ男っていうのよ。ふんっ、だ)

年下が上司というのは、まあ、再就職した身だからしょうがない。
けれど、その上司が、女の子たちにデレッとして、その女の子たちの心無い仕打ちを受けている新入社員の心中を見抜けていないなんて。

(わたしは、ヘタレでない人を探すのよ。そう。ちょうど、こんな)
こんな、フランスベッドみたいな人。
 
ベッドのオアシスは、今のわたしにとって、世界一安全な場所。息詰まる思いをしてきたからこそ、ここでゆっくり過ごすことを自分に赦したい。
フランスベッドみたいな人を探す。仕事もうまくいって、フランスベッドみたいな人と幸せになって。
明るい妄想がふわふわと体をくるんで、いつの間にか夢の中に入り込んでしまうこともある。

だけど、どういうわけか、とても腹ただしいことに、夢の中に出てくる「フランスベッドみたいな人」は、あのヘタレな加納チーフの姿をしているのだった。

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