ピクチャー 第1章: 心奪われて

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カヴァース小説部

【連載】ピクチャー - カザマとの思い出

第1章: 心奪われて

「おっと、私としたことが余計なことを言ってしまいましたかな」

店主が恐縮し、思わず背筋をぴんと伸ばす。普段は物事に動じず、なんでも冷静に対処しそうなタイプが珍しく動揺しているようだった。

「うふふ、いいのよ別に。そうね、たしかにあなたのお母さんには、おじいちゃんとの出会いは絵画教室ってことになってるかもしれないけど、でも本当は私、ここであの人に声をかけられたのよ」

「声を掛けられたって、、それって、もしかして、ナンパされたってこと?ここで?おじいちゃんに!?」

驚いた希美が、パウンドケーキのことを忘れて珠代の言葉に前のめりになる。

「うふふ、ナンパ、まあそうね。そう言われるとなんだか気恥ずかしいけど、まあ、あの人も亡くなって二年経つし、隠す必要もない話だから、この際だから全部白状しちゃうわ」

そう言うと珠代は、話を勿体ぶるようにしながら、パウンドケーキを一口つまんだ。ブランデーの香りとレーズンの甘味、しっとりとしたパウンドケーキの味わいが、口の中でふわりと広がる。

「よかったらあなたも同席していただけるかしら?あの頃の話、あなたも久しぶりに懐かしむのも悪くないでしょ?」

「そうですね、それもいいかもしれません。幸い今日のお客様はお二人だけですし、それに話すきっかけを作ってしまった責任もありますしね」

店主はそう言うと隣のテーブルにあった籐椅子をひょいと持ち上げ、珠代の椅子の隣に並べて着席した。珠代は古い記憶を呼び起こすようにアールグレイを飲むと、籐椅子の柔らかな感触に身を預け、遠い過去を見つめ始めた。


五十年前。ある晴れた夏の午後、珠代は街外れの紅茶サロンで、ひとり読書をしながら紅茶を飲んでいた。窓際の席は夏の日差しがめいっぱいに降り注ぎ、本も紅茶も籐テーブルも眩しい光で白んでいた。爽やかなブルーのサマーワンピースに身を包んでいた珠代は、その肌にうっすらと汗を浮かべていたが、そんなことには気づかず読書に集中していた。

珠代はこの紅茶サロンの空間が気に入っていた。静かで、上品で、洗練された大人の空間。アールグレイの紅茶も美味しいし、ケーキも美味しい。そして何よりこの上質な籐の椅子とテーブル。この椅子に座っていると、リラックスしながら深く集中できる心地よい状態になり、何時間でも読書に夢中になれた。夏の日差しを浴びながらこの椅子に座っていると、まるで南国のリゾートでバカンスを満喫しているような気持にもなれた。珠代は、そんな風に時間も現実も忘れて何かに夢中になれることに喜びを感じていた。

「美しい、、、」

ふたつ向こうのテーブル席に座っていた青年が、夏の光に包まれている珠代を見て、思わず呟いた。青年はまるでルノワールの油彩画に見惚れるように、サロンで読書する珠代の姿に目を奪われた。白い光に包まれながら、ブルーのワンピースを着て本に夢中になっている可憐なひとりの乙女。その絵画的ともいえる美しい光景は、青年の心を奪い、何かを決断し行動させるのに十分すぎるほど魅力的だった。

珠代が本のページを繰りながら紅茶を飲もうとすると、目端に人影が入り込んでくるのが感じられた。ふたつ向こうのテーブル席に座っていた青年だ。それは珠代のまったく知らない初対面の人間だった。何だろうと思い顔を上げると、青年はまっすぐに珠代の顔を見据えながら声をかけてきた。その時の言葉はあまりに想定外の言葉で、珠代の思考を完全に停止させた。

「私の絵のモデルになってくれませんか?」

見知らぬ人間に声をかけられるだけでも十分驚きなのに、唐突に絵のモデルになってくれないかと言われ、珠代はひどく混乱した。この人は一体なにを言っているのだろう。これじゃあまるで気取り過ぎて失敗したフランス映画みたいだ、と珠代は思った。しかし、そんな唐突で無茶苦茶な言葉を掛けられたのに、不思議と悪い気はしなかった。それどころか、温かい気持ちがじわりと胸の奥に広がるのを感じた。それは日向ぼっこをしていてぽかぽかと深部が温まってくるような、とても心地のいい感覚だった。

「私の絵のモデルになってください」

青年はもう一度、珠代に向けて言葉を掛けてきた。それは先ほどの問いかけよりは、幾分気持ちの強まったお願いという形になっていた。唐突にそんなお願いをされても、珠代は一向に嫌な気持ちにならなかった。むしろ先ほどより嬉しい気持ちが勝ってきているかもしれない。不思議な感覚にとりつかれた珠代は、青年の真っ直ぐな眼差しから視線を逸らすことが出来なくなっていた。そして喉が渇いたな、と思った次の瞬間には、珠代は自分でも思いがけず青年の言葉に返事をしていた。

「はい」

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