ピクチャー 第2章: 夢見心地

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カヴァース小説部

【連載】ピクチャー - カザマとの思い出

第2章: 夢見心地

数日後、珠代は青年の自宅にあるアトリエに居た。青年の名は清二といった。歳は珠代と同じだった。清二は資産家の一人息子で、裕福な家庭で育っていた。本来ならば父の会社を継いで社長になるべき家庭環境なのだが、清二はそれを頑として拒み、幼い頃から好きだった絵画の道を究めんと、ひたすらに絵を描き続けていた。

アトリエの中には幾つものカンバスが置かれ、そのどれにも風景画や人物画が描かれていた。部屋の東側にはひとつだけ窓があり、そこから朝の柔らかな日差しが降り注いでいた。絵の具や筆、木炭や食パンなどがテーブルの上に転がっており、アトリエ内は学校の美術室のような独特の匂いや空気感が漂っている。

「どうして食パンがテーブルにあるのかしら?お腹が空いたらこれを食べるの?」

テーブルの上にあった食パンが気になり、好奇心に駆られた珠代が聞いてみた。

「それは消しゴムの代わりだよ。木炭を使ってデッサンした時の線を消すには、食パンが丁度いいんだ」

「ふ~ん」

なぜこれが消しゴムの代わりになるのか珠代には今一つ理解出来なかったが、手に取ってみると確かに食パンには木炭の黒いかすが付いていた。

「早速だけど、そこの椅子に座ってくれないか」

窓からの陽光が差し込むアトリエの奥には、紅茶サロンにあるのと同じ籐椅子が置いてあった。ビクトリア調の優雅な曲線が美しいデザインの籐椅子は、クラシックでエレガントな気品が漂っている。籐の自然的で優しい色味のブラウンが、陽光を浴びてつるりと輝く。

「これ、あのサロンにあるのと同じ椅子ね。あなたもこれを持っていたの?それとも絵を描くためにわざわざ用意したの?」

珠代の問いかけに清二は答えようとせず、数メートル離れた場所から、絵の構図をどうしようかと考えあぐねている様子だった。真剣に目の前の空間を見つめながら、頭の中で絵を描く段取りが既に始まっているのかもしれない。

あまり質問をしたり声を掛けてもいけないのかなと思い、珠代は細かい疑問は横に置いて、とにかくその椅子に腰かけた。サロンでいつも座っているのと同じ椅子なだけに、身体はすぐにその籐椅子に馴染んだ。柔らかい座り心地、優しくて上質な籐の感触。飽きのこないデザイン。珠代は椅子に座ると、どんなポーズをしようか考える間もなく、気が付けばいつも通りの自然体で寛いでいた。お尻や背中を籐の網目に預け、手は膝の上に置き、視線は窓の外へと投げかける。清二から何の指示もないままにとったその姿勢は、もうすでに完璧で、ある意味で絵画は出来上がったといってもいい状態になっていた。

目の前の空間をじっと見つめていた清二は、すでに頭の中から現実的な思考がすっぽり抜け落ち、高い集中力を保った無の状態に陥っていた。それは絵を描く時に一番脳が活性化するフレキシブルな状態だった。清二はカンバスの前に立って木炭を手に取ると、何も考えず感じるままにさらさらと線を描いていった。


それから毎日のように珠代は清二のアトリエに通い、絵のモデルとして椅子に座り続けた。一週間が経ち、二週間が経ち、三週間が経った。簡単にモデルを引き受けたのはよかったものの、考えてみれば絵を完成させるまでにどれくらいの期間が費やされるのか、珠代には全く見当がつかなかった。

それでも珠代はモデルとして通い続けることが一向に苦にならなかった。むしろ今日もあの籐椅子に座って思索に耽れるのかと思うと、清二のアトリエに行くのが楽しみでしょうがなかった。普通なら、いま絵がどのくらい出来上がっているのか?いつ頃までモデルを続けることになるのか?そもそもお手当などは出るのか?など様々な疑問が湧いてきそうなものだったが、珠代はそんな通常の疑問も一切思い浮かばなかった。アトリエの中で椅子に座る。そして清二に自分のことを描いてもらっている。その二つの事実だけで、心の奥が温かい気持ちで満たされていった。

珠代はそれまで将来のことや家族のことなどに漠然とした不安を抱えていたが、こうしてモデルを続けていると、そういった心配事は、さらりと砂が零れ落ちるように霞んでいった。

籐椅子に座って陽光を浴び、ぼんやりと窓の外を眺める。そうして絵のモデルをしていると、珠代は時折とても不思議な感覚に捉われた。まるで自分の肉体が、座っている籐椅子そのものになってしまったような、アトリエの空間の一部になったような、窓から差し込む陽光になったような、ふわふわとした幻想的な浮遊感に包まれた。そんな浮遊感のなかで珠代は、椅子の魂を感じ、空間の息を感じ、光の生命に触れることが出来たような気がした。その感覚は言葉ではうまく言い表せなかったが、とても心地のいい状態だった。そんな風に珠代が得も言われぬ悦びに包まれていると、とつぜん清二がカンバスの横に絵筆を置いた。

「明日から、もう来なくていいよ」

その言葉を聞いて珠代は驚いた。いま自分はようやく絵のモデルとして最高の状態に辿り着いたというのに、もう来なくていい?ここからが絵画として、芸術として、一番の本領を発揮できる領域なのではないか?と珠代は素人ながらにそう思った。しかし、清二からのあまりに突然の言葉で、珠代の思考回路はパニックに陥り、返す言葉もなかった。そして珠代はその日を最後に、清二のアトリエには行かなくなった。モデルをはじめてから四週間後の事だった。

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