ピクチャー 第3章: 優しい手触り

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カヴァース小説部

【連載】ピクチャー - カザマとの思い出

第3章: 優しい手触り

心にぽっかり穴が空いてしまった珠代は、その空白を埋めるために紅茶サロンに行った。そこに行けば清二に会えるかもしれない。会えばモデルに来なくていいと言われた言葉の意味が聞けるかもしれない。単純に絵が完成したというのが理由なら、その報告を聞けるだけでもいい。そう思って珠代はサロンへ足を運んだ。

しかし、何日サロンに足を運んでもそこに清二は現れなかった。珠代は抜け殻のような自分の身体をサロンの籐椅子に預け、店主が淹れてくれる紅茶を飲んだ。アールグレイはいつもと変わらず美味しい筈なのに、不思議と何の味も香りもしなかった。珠代は丁寧に編み込まれた籐椅子の丸い手すりを摩って、つるりとして上品な曲線を愛でた。その感触は、心の中に生まれた空白に、そっと優しく寄り添ってくれた。

そうして気の抜けた感情のまま紅茶サロンに通い続けたある日のこと、店主が珠代に声を掛けてきた。

「珠代さん、清二さんから伝言を預かりましたよ」

その言葉を聞いて珠代は思わず飛び上がった。無意識に両手を胸に当て、ドキドキと弾んだ鼓動を感じ取る。頭が真っ白になった珠代は、店主に何と言ったらいいか分からず、ただ口をぱくぱくと動かした。

店主が預かったという伝言は、小さな紙きれ一枚だった。名刺ほどの大きさの小さな紙。そこには走り書きしたようなくねくねとした文字で、場所と日付が記されていた。場所は隣町の美術館。日付は今日だった。珠代が咄嗟に顔をあげて店主を見ると、店主は何も言わずにコクリと深く頷いた。珠代は伝言を預かってくれたお礼を言うのも忘れ、すぐにサロンを飛び出した。

夏も終わり、すっかり秋も深まってきた晩秋の陽光が、乾いた風を通り抜け、乙女の身体に降り注ぐ。淡い光に包まれた乙女は、周りの景色ひとつ見えなくなり、息をするのも忘れて走り出していた。駅へ向かい、電車に乗り、隣町の美術館へと急ぐ。その間、珠代の頭の中は真っ白になり、完全に無の状態になって街中を駆け抜けていた。それは絵のモデルとして、清二の前で椅子に座って佇んでいる心境に似ていた。安らぎに身を委ね、不要な何かを忘れて、大事な何かを感じとっていく、そんな不思議で心地のいい瞬間。珠代は言葉にならない心境で、ふとそんなことを感じた。そして自分の弾んだ息に気が付いた時、珠代は美術館の前に立っていた。

美術館の中に入ると、そこは大勢の人で溢れかえっていた。入口にある催し物の看板には清二の名前が書いてある。どうやら今この美術館では、清二の個展が開催されているようだった。小さな街の美術館とはいえ、同い年の清二の個展が開催されていると知り、珠代は心底驚き感心した。ここに呼ばれたということは、私のことを描いた絵が展示されているということだろう。そう思うと、珠代の鼓動は激しく脈打った。期待と緊張で息を詰まらせながら、珠代は慎重に美術館の中を歩きはじめた。

館内には風景画や人物画など、様々な作品が展示されている。その中の幾つかは清二のアトリエの中で見た覚えのある絵画だった。人々はそこで一様に感心しながら、作品をひとつひとつ静かに鑑賞していた。たしかにどれも見応えのある素晴らしい作品なのだろうが、珠代の目にはどれ一つとして作品として映り込んではこなかった。椅子に座る自分の絵を探す珠代にとって、それは視界には入っているが、ただの風景の一つにしかならなかった。そうやって美術館の奥へ進んでいくと、ひときわ多くの人だかりが出来ている場所があった。一体そこにはどんな絵が飾られているのだろう。珠代ははやる気持ちを抑えながら歩を進めた。

奥の部屋の壁には、ピクチャーレールに掛けられた油彩画が展示されていた。ブルーのワンピースを着て、籐椅子に座る女の絵。それは紛れもなく自分がモデルを務めた絵だった。淡い光の中で、優しく微笑む美しい女性。

これは一体何だろう?自分はこんなに穏やかな顔をしていただろうか?そもそもこんなに美人であっただろうか?別に顔や表情が誇張して美しく描かれている訳ではない。たしかに普段の自分の姿かたちそのものを描いてもらっている絵なのだが、それにしてもこの内側から滲みだす幸福感、画面全体に溢れる神々しいまでの美しさは一体何なのだろう。普段は心の奥に隠れてしまっている美しい心象が、すっと掬い取られ、色鮮やかにカンバスに映し出されている。これが絵というものであり、芸術というものなのだろうか。才能のある人間が一つのものを作り上げると、これ程までに人の心を動かすことが出来るのか。そう思うと珠代は、ただただ舌を巻き驚くばかりだった。

「自分の代表作といえる作品が完成しました。私は今日この日を迎えられて、とても嬉しいです、珠代さん」

珠代が作品に心を奪われていると、うしろから突然声を掛けられた。びっくりして振り向くと、そこにはワイシャツにベストを着込んで正装した清二が立っていた。

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