安息日 序章: 夕陽の眺め

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カヴァース小説部

【連載】安息日 - 包み込んでくれる、カザマの籐椅子

序章: 夕陽の眺め

美奈子は泣いていた。椅子に座り、沈む夕陽を見つめながら、ぽろぽろと大粒の涙を零して泣いていた。その涙は、一概に悲しみによってだけ流れ落ちるだけの、単純な涙ではなかった。悲哀があり、徒労があり、欠落があり、人生を歩んできた足跡があった。それは四十歳を目前にした美奈子が辿り着いた、初めて感じ入る言語化できない複雑な種類の涙だった。

涙は音もなく流れ続け、膨らんだ美奈子の頬の上を、木肌を伝い落ちる雨の雫のように、つるりと風雅に流れ落ちた。その間、水平線に沈もうとする夕陽は、辺り一面を橙色と緑色と白色に染め上げ、極楽浄土のそれに似た、儚くも幻想的な風景で美奈子のことを包み込んだ。

美奈子はその時、何か言葉を発したかった。一人きりで泣いているのに、誰に聞かせるわけでもないのに、何かしらの言葉を今この瞬間に吐き出したかった。しかし、その想いは叶わなかった。言葉を紡ぎ出そうとして涙を落としているその束の間に、無情にも時は過ぎ、夕陽はその役割を仄か明るい月にとって代わり、海の向こうに沈み入った。それでも美奈子の心には悔いも憂いもなかった。むしろその無情なる時の経過に対し、感謝と敬意の気持ちさえ感じた。

そうして複雑な感情が絡み合った大人の涙が流れ落ちた後、美奈子は座っていた椅子に身も心もすっぽりと包み込まれていた事に気が付いた。自分は何も言葉を発することは出来なかった。しかし、この椅子はそんな自分の言葉を、きっと余すことなく汲み取り、そっと耳を傾けていてくれただろう。美奈子はその椅子をゆっくりと掌で撫でた。それはとても美しく優雅で、居心地のよい籐椅子だった。

美奈子が一人でこのホテルにチェックインしてから一週間が経っていた。

眩しい白浜と紺碧の海を目の前に臨む、沖縄のリゾートホテル。ロココ調の艶やかな曲線で縁どられた門をくぐり敷地内に入ると、庭園に幾つも植えられた椰子の木が、波風でさわさわと葉音を奏でた。敷地内にはアダルトオンリーの静かなプールが備えられており、デッキチェアで酒を飲むことが出来る。天井が高くオリエンタルな色調で誂えたロビーには、長旅で疲れた旅行者が寛げるロビーソファが置いてあった。デッキチェアもロビーソファも、このリゾートホテルに配されている椅子は、すべて南国リゾートらしい籐椅子だった。色彩はダークブラウンから、ナチュラルブラウンまで様々あり、形も一人用の安楽椅子から、数人で寛げるソファタイプのものまであった。

美奈子は最初、三日間だけこのホテルに滞在し、その後は別のホテルに泊まって沖縄での数日間を過ごそうと考えていたが、このホテルに来た途端、すっかりここが気に入り、フロントで長期滞在できるよう変更してもらった。

「安西様、おはようございます」

「あ、高木さん、おはようございます」

一週間ホテルに滞在しているあいだ、美奈子は支配人の高木と挨拶を交わすようになっていた。

「今日はどちらへお出かけですか?」

「今日はビーチで乗馬でもしてみようかと思って」

「そうですか、それはいいですね。今日は天気も崩れそうにありませんし、乗馬にはもってこいの日和ですね」

支配人の高木にそう言って見送られると、美奈子は麦わら帽子にTシャツ、ジーンズというラフな格好で、乗馬の出来る砂浜へ向かった。

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