安息日 第3章: 癒されて見えるもの

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カヴァース小説部

【連載】安息日 - 包み込んでくれる、カザマの籐椅子

第3章: 癒されて見えるもの

「いえいえとんでもない、どうぞどうぞ、お座りください。むしろ安西様にもこの籐椅子が気に入ってもらえているのかと思うと、とても嬉しいですよ、本当」

高木は立ち上がり、美奈子に席を譲った。美奈子はホテルのバルコニーにあったものと同じ籐椅子に座り、視線の先にある夜の海に目をやった。星明かりで波のざわめきが微かに捉えられる。波音以外には何も聞こえない、心地の良い静寂。美奈子は椅子に深く腰掛けながら、身体の奥に沈殿していた澱を吐き出すように、深く大きな息を吐いた。自分の内側に残るもやもやとした疲労や微かな痛みが、ふわりと解放されていく。そんなことは初めての経験に、美奈子は心地のいい安らぎを感じていた。

「不思議ですよね」

美奈子が言った。

「何がですか?」

高木は望遠鏡を覗きながら言葉をかえした。

「私たちはみな、この地球に生きているというのに、こうやって自然に抱かれ、星々を眺め、その身を何かにゆったりと預けてみないと、その事実が実感できない。というか、大事な何かを思い出す事すら適わない。人間って、頭がいいのか愚かなのか、時々とても分からなくなりますよね」

「はは、まあ確かに、日々の生活や営みに追われておりますと、肝要な部分は置き去りにされてしまうかもしれませんね」

「でも、だからこそ高木さんのところのようなリゾートホテルが必要なんでしょうね。そして、こんな風に心から寛げる椅子も」

「それは大変恐縮です。でも確かにその通りだと思います。人々は安息を得ることで、明日への糧を得られる、ということなのかも知れませんね」

高木は望遠鏡から目を離し、星空を仰ぎ見ながら大きく伸びをして、深呼吸をした。潮の香りを肺いっぱいに含み、身体の中の古い酸素と総入れ替えをするように息を吐く。美奈子もそれに合わせるように深呼吸をした。身体の中に潮の香りが充満すると、まるで自分も海の一部になれたような気がした。体内の空気が入れ替わり、美奈子は新しく生まれ変わった気持ちになれた。籐椅子に座りながら感じる、初めての境地。きっとこれが上質で丁寧に作り込まれた、本物の籐椅子だからこそ得られる相乗効果なのだろう。美奈子は無意識の内に、籐椅子のつるりとした肘掛けを掌で摩っていた。

「安西様、私はそろそろ帰ります。よかったら安西様をホテルまでお送りしたいのですが、よろしいでしょうか?」

「すっかりご迷惑をお掛けしてしまいましたね。すいません。では、お願いします」

夜の海を一人で歩いていて、何かあってはホテルにも迷惑がかかってしまうだろう。美奈子は申し出を受け、高木の自家用車でホテルへと戻った。

翌朝目を覚ますと、すでに時計は10時をまわっていた。美奈子はぼんやりとした頭のまま、軽くシャワーを浴び、身支度を整えてから、ホテル内のカフェに行った。ブランチにサンドイッチを食べ、カフェオレを飲む。その時点で美奈子の思考は回転することを辞め、今日一日これから何をしようかなどという建設的な考えは全く皆無だった。ただ漠然とその日の気分に身を任せ、風まかせの心持ちでカフェオレを飲み干した。

美奈子は部屋に戻らず、そのままホテルの敷地内の庭園を散策した。風に揺れる椰子の木の葉音を聞きながら、眩い陽光に照らされる芝生を見つめながら、当てもなく庭園をぶらついた。何も考えずに無心になって自然の中を歩くのは、想像以上の心地よさだった。ブーゲンビリアやハイビスカスなどの南国の花々が咲き乱れ、蝶や蜂になった気分で花に近寄り、香りを胸いっぱいに吸い込む。椰子の木の木肌に触れ、樹木の息吹を感じる。太古の人間たちは、当たり前にこんな風に自然と接していたのだろう。美奈子はそんな遥か彼方の人々に想いを馳せながら、ゆったりとした気持ちで庭園散策を続けた。

庭園の奥には東屋が建っていた。屋根の下にはおそらくはKAZAMA製のものであろう籐の椅子とテーブルが配されていた。美奈子は東屋の中に入り、籐椅子に腰かけた。椅子もテーブルも籐なので、より一層南国リゾート感が引き立てられている。東屋からは緑の庭園が一望でき、さらには椰子の木の奥に広がる海も垣間見えた。遠くから聞こえる潮騒をバックに、美奈子はしばしここで休憩することにした。

完全にリラックスした頭の中には、これといった考え事ひとつ浮かび上がらなかった。緑を眺め、潮騒を聴き、ただただその場に佇む。ある意味でこれが本当のリゾートなのかな、と美奈子は無意識のなかで感じ取っていた。

美奈子はあれからもう涙を流していなかった。出来ればもう一度、あの得も言われぬ複雑な涙を流してみたいと思ったが、それはもう叶わなかった。あの後も何度かバルコニーの籐椅子に座り、朝日を眺め、夕陽を眺め、星空を眺めながら泣こうとした。しかしその試みは上手くいかなかった。きっとあれは、腫瘍が破裂して膿がただれ落ちるように、限界を迎えた心が決壊し、意識とは関係なく吐き出された心的な生理現象のようなものだったのだろう。

自分は知らぬ間に様々な荷物を背負い過ぎていたのかもしれない。それで突然思い立って、全てを投げ捨て、ここに来たのだろう。もしかしたら自分は、この場所に来ることが運命づけられていたのかもしれない。或いは自分の無意識の感情が、この場所に導いてくれたのかもしれない。美奈子はここに来た理由をそんな風に考えた。沖縄に来てからの数日間、美奈子の心と身体は、本来兼ね備えていた柔軟さと温かさを少しずつ取り戻していた。そんな風に美奈子自身が感じるようになると、寛いでいた身体にやおら生きる活力がみなぎってきた。大きく息を吸い込み、ぐいと拳を握りしめる。そして次の瞬間には美奈子は椅子から立ち上がり、ホテルの外のビーチへ向かって一直線に走り出した。

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