安息日 終章: 新たな気持ち

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カヴァース小説部

【連載】安息日 - 包み込んでくれる、カザマの籐椅子

終章: 新たな気持ち

「はあ、はあ、はあ、」

息を切らしながら、美奈子は白い砂浜の上に立ち、紺碧の海と向かい合った。弾んだ息を整えるように肩で息をし、額に流れた汗を手の甲で拭った。やがて呼吸が落ち着いてくると、美奈子は履いていたサンダルを脱ぎ捨て、スカートを捲し上げ、そのまま波打ち際に入り込んだ。海水は温かく、冷たさは感じない。美奈子は足先が濡れるのもお構いなしに、そのままどんどん海の中へと歩を進めた。打ち寄せる波が、美奈子の膝を濡らし、捲り上げたスカートの裾も濡らした。美奈子はそこで歩みを止めると、大きく息を吸い込んだ。

「海のバカヤロー!」

遥か彼方まで続く水平線に向かって、美奈子は叫んでいた。

「太陽のバカヤロー!」

その叫ぶ言葉の内容に、どれほどの意味があったかは美奈子自身も分からない。ただ美奈子はそこで大きな声で何かを叫びたかった。

「星空のバカヤロー!」

叫び声は波音にかき消され、潮騒の一部に取り込まれ、広大な海という生き物の一欠片となってどこかへと飛散した。美奈子は何度も声を張り上げながら、気付けばまた涙を流していた。大粒の涙がぽろぽろと、頬を伝い、口端を伝い、顎先へと流れ落ちた。濡れた瞳は赤く腫れあがり、平常時の様相は見る影もないほどに、感情が剥き出しになったあられもない顔をしていた。そこに顕れた感情が何なのかは美奈子自身にも判別は出来ない。ただ、いまそこで自分はこの感情を吐き出し、海に向かって叫び続けることが必要であることだけは、はっきりと確信をもつことができた。

翌日、美奈子はホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいた。ブルーマウンテンの上品な香りが、起き抜けの思考回路をしなやかに覚醒させる。

「安西様、チェックアウトのお手続きが完了いたしました」

「ありがとうございます」

チェックアウト手続きをした高木が、ラウンジで寛ぐ美奈子のもとへ来た。

「今日でここを離れなるのかと思うと、とっても寂しいわ」

「そう仰っていただけると、大変嬉しいです」

「一度でいいから高木さんと一緒にマイタイが飲みたかったわ」

「ははは、それはそれは、大変恐縮でございます。では次回のご滞在の時には是非」

高木は満面の笑みを浮かべながら会釈をした。それが社交辞令なのか本心なのか、美奈子には判別できなかった。しかし、そのどちらでもあると思わせる高木の返答は、相手の気持ちを尊重した優しさに満ちているように感じられた。

「でも高木さん、私、ここを離れるのがどうしても寂しいから、ひとつ決めたことがあるんです」

「決めたこと?でございますか?」

「ええ、そうなの。高木さんを見習って、私もそうしようと決めたのよ」

「私を見習って、、ですか?すみません安西様、一体それはどういうことなのでしょう?」

言葉の真意を図りかね、高木は眉間に皺を寄せながら、右に左に首を傾げた。まるで雀が辺りを窺っているみたいなその顔を見て、美奈子は思わず吹き出してしまった。

「うふふ、ごめんなさい、そんなに困惑させるつもりで言ったんじゃないんだけど。私が決めたっていうのは、この椅子のことよ」

「この椅子、というとKAZAMAの籐椅子のことですか?」

美奈子がいま座っているラウンジカフェの椅子も、KAZAMAの籐椅子だ。

「ええ、そうよ。部屋のバルコニーにあったあの籐椅子が気に入ったから、高木さんみたいに私もあれを買って、それを家で使おうかと思って」

「ああ、そういう事でございますか。それは大変けっこうな事だと思います。私も自宅で使用しておりますが、とてもリラックスできて、あれは大変に重宝しています」

「そうなんですね。私も自宅であの椅子に座って、その度にこのホテルを思い出して、安らいだ気分を味わいたいと思います」

そう言って笑う美奈子の顔は、つきものが取れたように晴れやかで、清々しい空気を纏っていた。

美奈子の心の中には、あの日のように泣きたいという気持ちは、跡形もなく消え失せていた。自分の心が内側から何かで満たされ、気が付けば笑顔が溢れるようになっていた。食欲があり、活力があり、自分の命を喜ばせてあげたいという、前向きなエネルギーが美奈子の身体中に満ち溢れていた。

「高木さん、実は私ね、ここに来る前に、、、」

「安西様」

「はい、、」

美奈子が何かを語り出そうとしたが、高木はその言葉を遮った。

「僭越ながら、それはおそらく、もう過ぎたことのように思います。そのお話は、きっと今の安西様にはお似合いにならないと存じます」

「高木さん、、」

「安西様はご自分の力で前に進むことが出来たのですから、何と申しますか、おそらくはそれでもう十分なのではないでしょうか」

高木にそう諭されると、確かにまったくその通りだった。過ぎたことを語るのは、今の自分には相応しくない。自分はもうあの時、バルコニーで涙を流した時に生まれ変わったのだから。

「そうね、ありがとう高木さん」

美奈子はテーブルに勘定を置くと、荷物を持って立ち上がった。慌てて近くにいたボーイが駆け寄り、美奈子のスーツケースを持つ。ホテルの外に出ると、すでに高木が呼び寄せていたタクシーが到着していた。ボーイがトランクにスーツケースを載せ、高木は見送りをしようとタクシーの側で起立していた。美奈子が後部座席に乗り込み、タクシーのドアが閉められる。そしてタクシーが発進しようとする時、美奈子は窓を開けて高木に声を掛けた。

「高木さん、次は本当に一緒にマイタイ飲みましょうね」

「はい、喜んでご一緒させていただきます」

その言葉が本気なのかどうか、美奈子にはやはり判別つかなかったが、その真偽は既にどうでもいい事のように思われた。

開け放したタクシーの窓からは、優しい南風が吹いてくる。美奈子はその暖かい風を感じながら、ゆっくりと息を吐き出した。

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