安息日 第2章: vacation

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カヴァース小説部

【連載】安息日 - 包み込んでくれる、カザマの籐椅子

第2章: vacation

「あら、高木さん、おはようございます」

「あ、安西様、おはようございます」

高木は支配人だが、その恰好は通常のホテルとは異なり、リゾートホテルらしいアロハシャツ姿だ。

「今日はホテル内でお寛ぎでございますか?」

「ええ、海や山もいいけれど、引きこもってホテルでのんびりするのも悪くないかと思って」

「そうですね、何もせずに寛ぐというのも、リゾート滞在の醍醐味かと思います」

高木はにっこりと笑いながら深々と頷く。

「よかったら高木さんも一杯いかがですか?マイタイ、美味しいですよ」

「そうですか、それじゃあ私も同じものを」

「えっ、本当に飲むんですか!?」

冗談で誘ったつもりが予想外の返答をされ、思わず美奈子は声を上げる。

「いえいえ冗談ですよ、私は仕事中ですので。でも、ありがとうございます、お気持ちだけでもとても嬉しいです」

「もう高木さん、びっくりさせないでくださいよ。私、一瞬本気にしちゃったじゃない、もう、ふふふ」

不意に放たれた高木の冗談に、美奈子の表情にも笑みがこぼれる。

「お客様に楽しんでいただくのも仕事のうちです。それでは失礼いたします」

高木は美奈子の時間を邪魔しないよう、風のようにふわりとその場をすり抜けた。美奈子はマイタイをもう一口飲みながら、高木の他愛ない言葉の余韻に浸った。白いラム酒が胸の奥を通り抜け、トロピカルな風味が鼻腔いっぱいに広がる。美奈子は大きく伸びをしながらデッキチェアの上でごろりと寝返りをうった。

きっかけは何だっただろう。何を思い立って急に沖縄に来たのか、このリゾートホテルに来たのか、美奈子はいつの間にか一人でここに来た理由を忘れてしまった。きっと何か自分を突き動かす衝動がそこにはあったはずだ。しかし、籐のデッキチェアで寝転がっていると、そんな現実的な自分の側面は、気持ちいいくらいにすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

そういえば、一昨日の涙の理由だって分からないままだ。何を思い出したわけでもなく、感情の波に呑まれたわけでもないのに、突然堰を切ったように溢れ出した涙。悲しみとも怒りとも苦しみとも判別できない、様々な感情が結び合い、瑪瑙のように複雑な輝きを放った涙。美奈子はこのリゾートホテルで、大事な何かを思い出そうとしている。

その日の夜、美奈子は夜のビーチをひとりで歩いていた。ホテルからの灯りも遠く、辺りは暗くて人影もなかった。夜空には雲ひとつなく、いまにも零れ落ちてきそうなほど眩い星たちが、キラキラと煌めいていた。

「きれい、、」

誰もいない真っ暗な夜の浜辺。女性が一人で散歩するにはいささかの危険を伴うが、美奈子は微塵も不安を感じていなかった。

夜空に輝く満天の星々。彼らが頭上で瞬いていれば、美奈子には何の不安もなかった。寄せては返す波の音が、大きな生き物の呼吸のように、ゆったりと規則的に流れている。夜の海は不思議だった。昼間の陽気さとはうってかわり、静寂と暗闇に包まれているというのに、どこか懐かしい気持ちにさせられる。遥か遠い昔の記憶に触れたような、得も言われぬ安堵感。まるで母親の腹の中にでも帰ったような気分だ、と美奈子は思った。ノイズのような波音と暗闇、そして満天の星空がそんな不思議な気持ちにさせるのかもしれない。

そうして浜辺を歩いていると、視線の先に誰かいるのが見えた。美奈子は特に警戒もせず、その人影に近づいた。そこには傍らに籐椅子を置きながら、望遠鏡を覗き込んでいる高木がいた。

「高木さん、ですか、、、?」

「え、ああ、安西様ですか?どうもこんばんは、こんな所にお一人で歩いてらっしゃったのですか?」

「ええ、少し夜風を浴びようと思って、、高木さんは、天体観測ですか?」

「はい、そうです、今日は新月だから星がよく見えるので、自宅から望遠鏡を持ってきたんです」

その望遠鏡はかなり大きく、本格的な天体観測用のものだった。

「安西様もご覧になりますか?今なら綺麗に天体が確認できますよ」

「え、いいんですか?」

「もちろんですよ、どうぞどうぞ」

そう言って高木は、美奈子に望遠鏡を覗ける位置を譲った。美奈子がスコープに目を当ててみると、そこには煌めく星たちが散りばめられた万華鏡のような世界が広がっていた。

「すごい、綺麗ですね」

「そうでしょう?星の輝きって、とても純粋でとても綺麗なんですよ」

レンズ越しにじっくりと天体を見つめると、その天体表面の陰翳までもがうっすらと浮かび上がってくる。無数の星々は、こんなにも一つ一つが表情豊かな存在だったと新鮮な感銘を受ける。美奈子が夢中になって星を見つめていると、高木は傍らに置いていた籐椅子に腰かけた。

「あ、ごめんなさい高木さん、私すっかり見入ってしまって」

「いえいえ、いいんですよ、どうぞ好きなだけご覧ください。私はこうやってこっそり夜の浜辺で椅子に座るのが好きなんです」

「その籐椅子は、もしかして客室のバルコニーに置いてあるものですか?」

「ははは、もちろん客室から取って来たわけじゃありませんよ。同じものを個人的にも購入したんです。ウチのホテルの客室にある籐椅子は全てこのKAZAMAの籐椅子なんですが、私はここの椅子が昔から大好きなんです」

「KAZAMA、、、」

「ええ、そうです。昔からある日本の籐家具のブランドです。とっても物が良くて、宿泊されたお客様たちにも好評なんですよ」

「たしかにそうですね。私もこの椅子に座るの、とても好きです」

夜の浜辺でKAZAMAの籐椅子に座る高木は、満ち足りた表情を浮かべ、とても満足そうだ。柔らかい座面にその身を預け、星空を見上げながら、何処か遠くの世界に想いを馳せている。高木の満ち足りた表情。人生の機微を熟知し、欲も我も綺麗に削ぎ落された、玉石のような清らかな心。椅子に座って自然に抱かれている高木は、かくも洗練された高尚な存在に思えた。

「あの、高木さん」

「はい、なんでしょう安西様」

「よかったら私も椅子に座って星空を眺めたいのですが、その籐椅子に座らせてもらってもいいでしょうか?急に現れてわがままばかり言って申し訳ないですが」

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