第1話: モリタインテリアと大川市の家具の歴史

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カヴァースメディア部

日本一の家具生産地、福岡県大川市で、家具を作り続けて約70年。モリタインテリア工業は「品質」と「デザイン性」を自負している。この2つを追求し続け、「お客様の人生に長く寄り添う家具」として、歴史を積み上げてきた。テレビボードやダイニングボードなどの「箱物」から、椅子やテーブルなどの「脚物」まで、トータルコーディネートを可能とし、住居空間を思い通りに、いや、想像以上に彩りを加え、ユーザーの人生を豊かにしている。

デザインから製造まで全て国内にある自社で行う徹底ぶりで、技術、素材、デザインが三位一体となった「モリタインテリア品質」にこだわり、住めば住むほどに愛着が深まる、価値ある暮らしを提供している。

モリタインテリアが商品に込めたストーリー

新聞記者から見た「モリタインテリア」の姿

第1話: モリタインテリアと大川市の家具の歴史 ← 今回の記事

第2話: 地域文化と時代に寄与するモリタインテリアの魂

第3話: 妥協を許さないモリタインテリアの技術力

第4話: 人の暮らしと地球の未来を見つめて

日本一の家具生産地・大川とモリタインテリアの起こり

今や老舗家具メーカーとして名を馳せるモリタインテリアの始まりは1950年、大川市小保で森田虎雄氏が100㎡の工業敷地に森田木工所を創業したことから歴史の1ページが開かれた。現在販売しているスマートな家具たちからは想像できないかもしれないが、当時は婚礼家具を製造していた。当時は娘が結婚するときに嫁入り道具の1つとして高価な婚礼タンスなどを贈る文化があり、婚礼家具は大きな市場となり、家具産地が栄えて行った背景がある。大川もその1つで、以来、モリタインテリアが大川の家具業界を引っ張っていくわけだが、大川の家具文化を語るにはなんと約480年前までさかのぼらなければならない。

筑後川の下流に位置する大川。上流部分にある大分県には木材の自然が豊富にあったが、当時は自動車やトラックなどの運送手段がなかったため、大木をイカダのように組んで筑後川に流して運搬していたという。それを下流にある大川で受け取り、大木を加工して船にしていたため、元々は船大工が「日本一の家具生産地大川」のスタートだった。船から技術革新が起こり、自動車などが普及すると船大工の重要性が薄まってきたところで、木工の技術を活かして家具に転身したそうだ。

大水害を乗り越え家具製造のイノベーション

しかし、1953年6月の大水害が創業4年目の会社を襲う。筑後川をはじめ、九州北部の川が氾濫し、多くの犠牲者が出たこの災害で、家具資材一式流失という悲劇を被った。精神的にも肉体的にも辛い出来事となったが、これを機に収納系の家具として婚礼家具と作り方が似ている食器棚製造に方針を変更し、再スタートを図る。1967年には敷地2219㎡、鉄骨平家の2068㎡の高級食器棚量産本社工場が完成。1970年には社名を「モリタインテリア工業(株)」に変更し、家具作りを極めていった。

ちょうどこの頃だっただろうか-。1967年あたりから、それまでは家具を職人が1個1個丁寧に作っていたものを工業化。つまりライン生産を始めることとなる。当時、他のメーカーでライン生産に着手しているところは少なく、ライン生産の走りのような存在となった。木材が豊富にあった地域性と高度経済成長期でモノが売れていく時代・・・。ラインで同じ加工をする量産型の仕組みが大川に浸透していくと、家具作りはさらに栄えていった。

技術・素材・デザイン「モリタインテリア品質」の完成

さらに当時では珍しかったことがある。モリタインテリアでは、社内にデザイナーを雇っていたのだ。商品開発、デザインをする人間は外注するのが今でも珍しくない。これにより、技術、素材、デザインが三位一体となった「モリタインテリア品質」が可能に。さらにデザイナーを海外で研修させ、そこでインスピレーションを得たものを国内で作り始め、デザイン性のある家具を量産していった。他にも海外のデザインを参考にするメーカーはあったが、時代背景的には高度経済成長期で普通に作れば売れた時代。大半のメーカーはデザインなど気にしなかった。

現在でもデザイン性が高い家具を生産し、生産ラインも多様なことがモリタインテリアの特徴。この時代から培ってきたデザインへの意識が、現代でも評価されるクオリティの高い商品へ反映されている。

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