フランスベッドのようなひと 終章: Voyageur mignon

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カヴァース小説部

終章: Voyageur mignon

 思いがけないハプニングだったとは言え、蓬莱シイラ氏のお宅のフランスベッドを使わせていただいた事は、転機だったと思う。

 あくる日、素朴で美味しい朝食を頂いた後、わたしは再び旅立った。海辺のバスターミナルは空いていて、バスを待っているのはわたし一人であった。

 蓬莱先生は「僕は今日も浜をスケッチしたいから」と言って一緒に来て下さり、ついでにバスの待ち時間の間、並んでベンチに腰掛けて下さった。鳥が高い声で鳴きながら頭上を飛ぶのと同時に、さあっと体の熱を奪うような潮風が横から吹いた。

 「寒いですか」

 「寒いですね」

 たわいない会話だったが、心地よかった。この人といると、まるでフランスベッドの上で寝転がっているかのように快適だった。

 バスが来て、お別れの時がきた時、名残惜しく感じた。多分、もう会うことはないだろう。この海辺の町に用事はないし、もし気が向いて旅行で訪れたとして、まさかまた先生のお宅で休ませていただくわけにはいかない。

 

 寂しいな。

 わたしは思った。

 

 ぷしゅうとバスが音を立てる。先生はターミナルに立ち、奇抜な白い髪の毛を風にあおられながら見送ってくれた。外国の芸術家風のカラフルな色彩感覚で身を包み、せっかくのイケメンを奇妙な眼鏡で隠して、お爺さんみたいな姿で、手を振ってくれた。

 ああ、いい出会いだったなあ。

 できればまたお会いしたいけれど、その願いは叶わぬ夢だろう。

 ともあれ、わたしは先生のお宅に泊めていただいて、思いがけないくらいさっぱりと気持ちを切り替えることができたのだ。深い癒しと、十分な休息。あのくつろぎの時間のお陰で疲れ切っていたわたしは救われた。

 

 フランスベッドか。

 次のボーナスで、考えてみようかな。

 

 どんどん移る車窓の景色を眺めながら、これからのことを考えた。

 もうわたしは眠くはなく、色々なことをやりたかったし、人生は思っているほど悪くないとまで、思い始めていた。


 それから半年が経った。

 破談から立ち直ったわたしは、ますます旺盛に仕事に精を出した。

 「真鍋さん調子いいじゃん」

 主任がニヤニヤして耳打ちしてくる。「どう、もしかして次の良い人見つかったの」

 

 やだなあ、そんなんじゃないですよ。十分な休養が取れたから、自分を取り戻せたと言うか。

 そう返しながら、一瞬、赤面してしまったのは否めない。「次の良い人」と言われて、奇抜すぎるあの人のことを思い浮かべてしまったなんて、自分でもおこがましいと思った。

 蓬莱シイラ氏は、夢の国の王子様だ。

 ある時は白髪の老人。その実態は若々しいイケメン。

 じっくり語り合ったわけでもない。ごく短い時間しか関わっていないというのに、わたしは一体、どうしてしまったのだろう。

 

 「いえいえ、欲しいものができたんですよ。次のボーナスのためにも、しっかり頑張らなくちゃ」

 わたしは言った。

 フランスベッドを入手したい。これは本心だ。あのベッドには、理想の癒しがある。自分のフランスベッドを手に入れたならば、眠りの時間がより愛おしくなるのに違いない。

 そっかそっか、まあ頑張りなー。

 主任はまだニヤニヤして行ってしまった。ああ、完全に勘違いされているなあ、そんなんじゃないのにぃ。

 ため息をつきたい気分になったが、すぐに切り替えて仕事に専念する。ベッドだ。フランスベッドのために、バリバリ頑張るのだ。

 

 夢は実現させなくては。


 そんなある日、町の美術館で蓬莱シイラ氏の特別展示があることを知った。

 ネットでその情報を知った時、胸が早鐘のように踊った。有名画家だから、各地でこんなイベントはあるのだろう。絵が展示されているからと言って、先生が来るわけではない。

 それでもわたしは、どうしても行ってみたくなった。

 日曜、会社が休みの日、一人で美術館を訪れた。午前中の早い時間にいったので、客は少なかった。常設展示のコーナーをすっ飛ばし、特別展示の部屋に急ぐ。

 蓬莱シイラ氏の絵が展示されている部屋は、薄暗かった。

 不思議な青い照明で海の雰囲気が演出され、「ざざん、ざざん」という波音まで流れている。凝ったことをするものだ。

 大きな絵が等間隔で並べられていて、そのどれもが海の絵だった。ああ、間違いない、あの町の、あの浜辺の絵だ。一枚一枚、見入ってしまい、長い時間をかけて鑑賞した。

 曇天の下の荒い波や、沖の方でそびえる小さな岩の山。

 海鳥が風にあおられて飛んでいる姿。

 

 そうか。

 わたしは気づく。

 先生の絵は、水平線の向こうを夢見させる力があるのだ。この荒い海の向こう側に、きっと素晴らしい世界が広がっている。見ていると、憧れの夢の国が自分を待っているような気持ちになってくる。

 暗い冬の海の絵であっても、先生の絵はどれも、どこか明るかった。

 幸せな未来を夢見ているような感じがした。

 「あれ」

 ある一枚の絵の前で、小さい声を上げてしまう。

 堤防と、薄暗い夜になりかけの空。それから、荒い波。海は満ち欠けていて、風は寒そうだ。

 一人の女の人が堤防に座って眠っていた。髪の毛が風にあおられて派手に乱れていて、地味なコートがはたはたと揺れている。

 このままでは潮に飲まれてしまうだろうし、体が寒さにやられてしまうかもしれない。

 なのに、不思議なことに、その女の人は、世にも幸せな顔をして眠っているのだった。

 Voyageur mignon

 フランス語でタイトルが記されている。

 なんだ、これは。どう読むのだ。そもそも、なんて意味だろう?

 その絵が、もしやあの日の自分の姿を描きこまれたものなのではないかという思いは、自惚れに違いないーーわたしは自分に言い聞かせる。

 有名な先生、あの素敵な、まるでフランスベッドみたいな王子様が、まさかわたしの絵を描いて特別展示で飾るなんて、そんなことなど、ありえない。

 展示室の中央にあるベンチで休みながら、そっとスマホを取り出した。謎のタイトルを入力し、フランス語の意味を探った。

 あんまり熱心に作業していたので、その時、暗い展示室に人が入ってきたことなど、ちっとも気づかなかったのだ。

 Voyageur mignon

 可愛い旅人。

 えっ、可愛い。

 可愛いって、わたしのこと?

 えっ。えっ。

 スマホの検索で出てきた和訳を見て、わたしはうろたえた。

 その時、背後に誰かが立ち、聞き覚えのある声で「ボワイジャーミニヨン」と、見事な発音でそれを読んだ。

 ふえっと飛び上がって振り向くと、そこには白髪の奇抜な姿のアーチストが立っており、にこにこ感じよく笑いながら、眼鏡の奥からわたしを見下ろしていたのだった。

 「また会えましたねー」

 と、彼は言った。

 「お茶でも。ここの美術館のカフェテリアは、結構良いんですよ」


 人は皆、夢を見る。

 夢は憧れ。

 そんな夢ばかり見るものじゃないと笑う人もいるけれど。

 だけど、現実があるから夢があるわけで。そして、夢はいつか、現実に変身することもあり得るのだ。

 

 夢の国の扉が開いた。

 素晴らしいダンスパーティーに招待されるかのように、幸福がやってくる。

 側にいるだけでくつろげる、有名なのに気さくな彼に手を取られ、わたしは歩き出す。また、会えましたね。どうです、そこでお茶でも。

 一度きりのお茶で終わるはずがない。

 何か、確信めいた予感を覚えた。そしてわたしは顔をあげ、まっすぐに彼を見上げた。老人風の姿をしているけれど、若々しく、希望に満ちた目を真正面から見つめ、自分が最も可愛く見える笑顔を浮かべながら「はい。よろこんで」と、答えたのである。

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