へそまがりの美しきカーブ 第3章: 曲がることを許す

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カヴァース小説部

第3章: 曲がることを許す

 「例の件、返事はまだなのかな」

 

 職場で、上司から話があった。

 正社員になってほしい、という件だ。いつまでも引っ張るわけにはいかないだろう。

 このままパートで続けるのか。この機会に正社員になり、人生設計を考えるか。

 「君はまだ独身だし、ご両親もお元気なのだろう。パートさんは、たいてい、時間の都合がつかないとかいう事情があるものだけど。それか、年配だからもう正社員としては働きたくないと思う人とか。この際、正社員になってもらえば、もっと上の立場になってもらうこともできるし、仕事の内容も面白くなってくるはずだ」

 上の立場。

 面白くなる仕事。

 胸が、ことんと音を立てた。

 そちらに進めば明るい光が差している。出口は近い。ずいぶん長いトンネルだったけれども。

 「あと三日、待ってください」

 わたしは心から申し訳なく思いながら、そう言った。

 「もう、心はほぼ決まっているのですが。ここで正社員としてお仕事できたらこんなに幸せなことはないのですが。けれど、もう三日、お願いします」

 自分自身にけじめをつけることがあるので。

 本当に勝手なことを申し上げて、すいません。

 頭を深々とさげると、上司は「まあ、小山内さんのそういう、ストイックなところを、みんな評価しているんだから仕方がないね」と言ってくれた。良いシーンだった。

 思わず涙がこみあげてきて、その後、上司からティッシュペーパーボックスを受け取る羽目になったのだけど。


 ついに地域の馬術大会に臨む日が来た。

 クラブから馬運車は出る。もしかしたらアキタコマチだけ勝手に行けば、と意地悪されるかもと思ったが、幸い、わたし以外にも小学生が二人、アキタコマチで出場することになっていたので、運んでもらえることになった。

 将来国体選手になるだろうと言われている、こまっちゃくれた子供たち。

 綺麗に化粧したお母さんたちは、デジカメを手に、子供よりも意気込んでいるように見える。

 (わたしが乗るのは、小学生二人が乗った後)

 微妙な気分だった。

 実は、ここ数日、アキタコマチの調子は良かった。曲がらない、曲がらない、と、こちらもムキになっていたのだが、アキタコマチの心情面に思いを馳せるようになってから、少し、馬の状態に沿った乗り方ができるようになってきたみたいだ。

 無理に曲げて馬を傷めない。

 最初はゆるく、馬に納得してもらいながら、焦らずじっくり少しずつ進めた。

 大会前日の練習で、アキタコマチは素晴らしいカーブを見せた。ごく近い障害と障害の間を、きゅっとタイトに曲がり、スマートに飛んでくれたのだ。

 その飛越が叶った瞬間、夢を見ているような心地だった。これなら勝てるかもしれない、気持ちよく自分の人生に戻れるかもしれない。そう思った。

 だが。

 (こいつらが乗った後、アキタコマチはまた心を閉ざしてしまうんじゃないか)

 きゃっきゃけらけらと笑う、やんちゃな子供たち。

 乗り方を見る限り、馬の状態を理解しているとは思えない。ただ手綱をひっぱり、足で腹を蹴ることしか知らないように見えた。

 (わたしが一か月かけてアキタコマチを良くしたのに、一瞬でそれを駄目にされるかもしれない)

 

 もしかしたら、クラブ側は、そういうことまで計算して、こんな出場順番を決めたのかもしれない。そこまで卑屈に思ってしまった。

 しかし、実際に大会が始まると、わたしの予想を色々な意味で裏切る事態となった。

 アキタコマチは、二人の子供のどちらの言うことも、ろくに聞かなかった。

 障害に顔を向けようと乗り手が躍起になっても、馬はそっぽを向いた。なんと、アキタコマチはするりするりと障害の間を通り抜けて走り、一度も飛越しないまま、のこのこと戻ってきたのである。

 「酷いな」

 「どうなってんだよ」

 まだ大会の意味もわからない子供たちは「変な馬」と笑っているばかりだったが、クラブ側は顔をしかめてムッとしていた。

 一番意地悪で、わたしに光熱費を請求してきた人が、ちらっとわたしを見て、ひそひそと耳打ちをしているーーほら、小山内さんがずっと乗ってたでしょう、馬に変な癖つけられちゃったんだと思うよーー同じクラブの人たちから少し離れたところで、わたしは大会の見学をしていた。

 人馬一体。

 どれほど気持ちよいだろう。皆の見ている前で風のように馬場を駆け、鋭く障害を飛越する。馬乗りは的確に馬に指示を出し、馬は忠実にそれに従う。そのカーブを曲がる。そこは直進。はい、障害まで三、二、一、飛越。

 

 わたしは目を閉じた。

 今までの自分の乗馬はどうだっただろう。

 ただがむしゃらに、上手くなりたい、喝采を浴びたいと、乗って乗って乗りまくるだけではなかったか。

 わたしに乗られた馬は、どんな心地だったか。

 曲がりたくても許されず、ただただ、うんざりするほど真っすぐに鞭うたれているような気分ではなかったか。

 (曲がれば、心地よかったはずなのに。人も、馬も)

 「次は、スピード&ハンドネス、80センチ」

 アナウンスがかかる。

 80センチの高さに設置された低い障害が並ぶ。指定の順番通りに飛び越してゆき、ゴールする。どれほど早くゴールできるかを競う種目だ。

 本当は、1メートルに出たかった。いつか、1メートル以上の高さの障害を、どんどん飛んで行き、風を切ってゴールするのが夢だった。

 

 だがもうわたしは自分の限界を知っているし、なにより夢は「おわり」を迎えようとしていた。ここから先は新しいことが始まるのだ。

 アキタコマチは、今日はへそを曲げている。

 たった80センチの高さの障害でも、飛んでくれないまま終わるかもしれない。

 そうしたら、わたしは最後まで惨めな気持ちで乗馬を辞めることになるだろう。

 (頼むよ)

 アキタコマチの首を撫でる。祈るような思いだった。

 アキタコマチはあの、遠くを見るような目で天を見上げていたが、一瞬、わたしと視線を合わせてくれたような気がした。

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