良いものは良い 序章: 戸惑い

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カヴァース小説部

序章: 戸惑い

 良いものは良いと、口にすることは、難しい。

 人はそれほど、強くはできていないーー少なくとも自分のような「ことなかれ主義」の人間には。

 わたしは特養の介護士をしており、フロアリーダーの経験がある。去年妊娠し、産休、育休に入り、やっと時短勤務で現場に戻った。したがって現在は、ただの平の職員である。

 ところが、一度フロアリーダーをしてしまうと、周囲はなかなか「平」とは見てくれない。

 なにかにつけて、色々と面倒なことが持ちかけられてしまうのは、まあ、仕方ないことなのかもしれない。人手不足だし。

 (だけど、こんなことまで、ねえ)

 保育所に子供を迎えに行き、ようやく帰宅したと思ったら、ラインが入った。

 誰だろう、と思ったら、職場の同僚の、かなちゃんからだった。

 かなちゃんは若いけれど、フロアリーダーとして頑張っている。わたしの後釜としていきなりフロアリーダーが振られてしまった時は泣きそうな顔をしていたけれど、未だにちゃんと務まっている。

 そのかなちゃんから、何の用だろう?

 「はいはい、ちょっとまってねー」

 

 じゃれついてくる子供を片手で抱きかかえながら、スマホを見た。

 そして、絶句した。うわぁお。

 「業務外の時間にすいません。わたし、妊娠したみたい。いろいろと相談に乗って欲しいです」

 いやしかし、かなちゃん結婚してなかったよね?

 一瞬、思考が停止してしまったが、すぐに我に返った。

 どういう時であれ、新しい命の芽生えは、めでたいことなのだ。

 「いいよ、何でも相談して」

 と、わたしは返信してしまった。

 

 まあ、情のある人間なら、誰でもそう答えるのに違いない。

 だって、同僚が妊娠したのだから、無理なく、安心して出産し、育児に励んでもらいたいものだろう。

 しかし、かなちゃんがわたしに相談したいことって何だろう。妊娠に不安があるのだろうか。彼氏との結婚話のもつれだろうか。

 いろいろと考えていると、かなちゃんからラインが返ってきた。

 それで、かなちゃんからの「相談」が、かなりキツイものであることを知ったわけである。

 「妊娠したから夜勤外されるのと、フロアリーダーもそのうち外れることになりました。次のリーダーを決めなくてはならないのだけど、わたしは大井さんに任せたいと思っています。でも、強いのは羽黒さんですよね」

 周囲は、強くて怖い羽黒明子をリーダーに推すだろう。彼女がリーダーになれば、確かに職員はまとまる。ただし、そのまとまりは恐怖心によるまとまりであり、省かれて転落してゆく職員も何名か必ず出てくるだろう。

 (羽黒さん、利用者に対してもアレだから・・・・・・)

 羽黒さんは、要求の多い利用者や、徘徊するタイプの利用者に対しては、非常に冷たくあたる。そして、それを自分の周囲にも強要するところがある。羽黒さんが出勤している日、フロアの雰囲気は異様だ。職員はきゃっきゃとしているように見えるが、利用者は皆、怯えたように羽黒さんの動きを目で追っている。

 一方、大井まさよの場合。

 

 「あー今日の入浴介助、大井さんか。勘弁してよー」

 「終わったなー」

 「丁寧に優しくするのはいいけどさ、やってらんないのよねー」

 

 羽黒さんの影響で、このところ、職員たちは、何でも楽に、細かいことを省いて仕事することを覚えてしまった。

 いろいろと訴えのある利用者についても、「忙しいのよっ」「自分でできるでしょっ」とはねつけることで、黙らせることができる。最も、そんなことで利用者の思いが解決したことにはならないので、後々になって影響が出てしまうのだけど、とりあえずその時点では、楽に物事が進むのだ。

 そんな具合で、早ければ雑でも良い、利用者より自分たちの楽を優先する、という風潮が濃厚になってきた。

 その中で、「介護の基本」を守り続けているのが、大井まさよなのだった。

 基本的に利用者に対しては「さん付け」「丁寧語」であり、会話する時は必ずしゃがみ、目線を合わせる。

 本当はごく当たり前のことなのだが、今のうちの施設では、それが守られていない。

 

 「大井さんのやり方だと、もう、間に合わないんだよね」

 「人手がないんだから、現状にあったことするべきだよ」

 

 地道に仕事をし、無駄口をきかないタイプの大井さんに対し、聞こえよがしに言う者は多い。

 しかし、密かに大井さんを慕い、その仕事から学ぼうとする者も、少数だがいる。

 うちのフロアで言えば、例えば、金山さんとかーーああ、駄目だ、完璧ないじめられっ子だな、金山さんは。羽黒さんグループから目をつけられているし。大井さんを推してくれたとして、返って逆効果かもーー様々なことが頭を駆け巡った末、わたしはかなちゃんに、ラインを返した。

 「わかるけど、難しいと思うよ」

 送ってから、心が酷く傷んだことは否めない。

 わたしだって、施設を良い方に向けたい。フロアに良い風を入れたい。そのためには、羽黒さんに地位を与えるべきではない。

 けれど、ねえ。

 「わかってる。だけど、良いものは良いでしょう」

 かなちゃんは、そう送ってきたけれど、それならどうして自分一人で堂々と公言しないのか。

 

 リーダーは、大井さんにお願いしたいと思います。

 みなさん、よろしく盛り上げていってください。

 その言葉を、どうしてすんなりみんなの前で言えないのか。

 

 それはわたしが同じ立場だったとしても、苦しい。言えるわけがない。

 

 人は弱い。

 良いものを良いと言うことは、本当に難しい。

 (明日、かなちゃん出勤だよなあ。あ、大井さんもだわ)

 嫌な予感がした。

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