良いものは良い 第1章: 良いものを知る心と、現実

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カヴァース小説部

第1章: 良いものを知る心と、現実

 時短勤務のわたしは、朝の9時からの日勤帯だ。

 翌日、職場にきた時、既に問題は勃発していた。

 「ねえ汚いっ」

 ホールに入った途端に耳に飛び込んできた罵声ーー羽黒さんのかん高い声に、わたしは一瞬、目を閉じるーーいつもの風景と言えばそうなのだが、出勤して一番最初に目にするのは、やはり気分が重い。

 食事がなかなか進まず、最後には手で遊んでしまい、テーブルや衣服のあちこちに擦り付けてしまう利用者。羽黒さんは、「手間をかける利用者」に対し容赦がないのだった。

 「わたし触るの嫌だからねっ」

 わたしが入っていった時、羽黒さんは太った体をエネルギッシュにゆさぶりながら、小さな利用者の車椅子をぐいぐい押して、洗面台に向けていた。

 

 「ほらっ」

 言い放つと、羽黒さんはくるっと回れ右をした。そして、わたしと目が合い、悪びれた様子もなく「おはよっ」と言った。

 その日の動向により、9時出社時のホールの様子はまるで違う。

 朝食を終え、排泄介助、入浴準備または居室での静養。出勤時、必要な過程がどこまで進んでいるのかで、その日の仕事の詰まり具合が異なってくる。

 この日は夜勤明けの金山八千代が一人で頑張ったのだろう、ホールはほぼ片付いていた。一人取り残されていた食事の遅い利用者が、羽黒さんに怒鳴りつけられていたわけである。

 配膳車はとっくに厨房に下げられているので、残飯の量は分からない。

 羽黒さんが食事介助に関わる時、たいてい食事の残量は多い。羽黒さんは、利用者の膳から食事を少しずつ間引いてしまうのだ。そうすることにより、食事が早く終わり、後片付けもきれいに済むという考え方だ。まあ、確かに施設の食事量は多いし、こんなに食べきれないのに、と思うことはしばしばである。羽黒さんのやり方は、合理的と言えば合理的なのだが。

 (ちょっと違うんだよなぁ)

 ため息が出そうになるが、わたしはリーダーでも何でもなく、時短勤務で肩身の狭い、平の介護職に過ぎない。

 「お姑さんと一緒に住んでいれば、時短じゃなくても働けるのに。結局は我儘よね」

 などと、陰で言われていることも知っている。子育てしながらの介護職は、なかなか厳しいものがある。

 

 (人事の意見なんか、言えるわけないよ)

 「おはようございます」

 ケース記録を確認していると、フラフラと奥から現れたのは、夜勤明けの金山さんだった。

 記録を見ると、今回の夜勤は大変だったらしい。おまけに、早番が羽黒さんだったので、金山さんは疲れ切っている。羽黒さんは、嫌いな人に対しては容赦がないので、金山さんにもすごい当たり方をする。利用者も震え上がるくらいの勢いで、「あんた、これまだやってないってどういうこと」と、怒鳴りつける。時には胸倉を掴んだり、後頭部をどつくことくらい、やる。

 もちろん今時、パワハラモラハラと世間で問題視されているので、見られてまずい相手がいる時は、流石の羽黒さんも行動を慎んでいるようだ。

 しかし、その裏表の激しさは、やられている相手にとって、より疲弊度が強まる結果になっていまいか。

 「すいません、わたし今やっと全部オムツ見たところで・・・・・・」

 多分、朝から酷い思いをしているのだろう。金山さんはいつも以上に低姿勢で、視線を合わせるのも怯えているようだった。

 そろそろ、日勤のかなちゃんが来るころだな、と思って時計を見ていたら、「おはよう~」と、つやつやの肌のかなちゃんが元気よく現れる。かなちゃんはホールの様子を見るまでもなく、今日の状況を把握していたようで、金山さんのくたびれ切った顔を見ても、特に驚いたりはしなかった。

 「お疲れ様です。大変だったー」

 と、かなちゃんは金山さんをいたわり、ちらっと洗面台に向かっている利用者を見た。

 ざーっと冷たい水が流れっぱなしになっており、そこで手を洗うでもなく、利用者は呆然と座り続けている。

 「夜勤明けの人が、朝食後のオムツを全部みたみたい」

 わたしはそっと、かなちゃんに言った。

 「まあね」

 と、かなちゃんは全て見通しているかのように頷いただけだった。

 羽黒さんは、仕事をスムーズに動かしているように見える。

 だがそれは、羽黒さん自身が必死に動いているわけではなく、恐怖政治により、立場の弱い職員を働かせているだけなのだ。

 そのことで、楽できている職員も一定数いるのは事実である。そういう職員の指示を集めているので、羽黒さんは強い。

 「おはようございます。かなちゃん出てきていいの、体大丈夫」

 ふわっと優しい雰囲気が流れ込んできた。はっと振り向くと、そこには大井まさよが立っていた。

 遅番の大井さんが出勤するには、あまりにも早い時間である。恐らく、かなちゃんは昨晩、大井さんにもラインを送ったのだ。事情を知った大井さんは、妊娠初期のかなちゃんに無理がかからないように、早めに出勤したのだろう。

 「あ、体は大丈夫。問題は、あのことで」

 かなちゃんは思わせぶりに言い、ちらちらっとわたしに目配せをした。

 わたしは内心、困惑していたが、頷いておいた。

 大井さんは静かにかなちゃんを見ると「少し考えさせてね」とだけ言い、そのまま仕事に入った。洗面台に放りっぱなしになっている利用者の対応をしている。

 利用者の手を洗い、そのままトイレに向かったようだ。その後、汚れた服の交換をしていた。更に、「記録に入って下さい。現場の業務は日勤がするからね」と、金山さんにまで声をかけていた。

 わたしは入浴介助がついているので、すぐにでも動かねばならない。

 機械浴の準備をするためにホールを出ようとした時、隣のホールから、羽黒さんが仲良しの職員と楽しそうに歓談する声が聞こえてきた。

 夜勤明け者にホールを押し付けて、自分はおしゃべりをしている。

 

 今の場面だけでも、次期リーダーに羽黒さんを据えてはいけないことは、一目瞭然だと、わたしは思った。

 更に言えば、リーダーになるべきは、大井さんであることも、嫌と言うほど分かっていた。

 だけど、それを口に出すことは難しい。

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