僕は良い物を追い求めたい 第2章: 喘鳴

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カヴァース小説部

第2章: 喘鳴

 坂の上のマンションから、ガードレールに沿って、町の暗い部分へ降りてゆく。

 案外ラクチンじゃないかと余裕で走っていたら、いやにスピードが出た。そして、気が付いたら坂の下のところまで来ていて、足元の溝に水が流れ、ちょろちょろという音が耳に入った。ガードレールの向こう側は雑林になっており、そこは多分、崖のようになっている。

 (真夜中に来る場所じゃないな)

 と、僕は思った。

 絶妙なタイミングで風が吹いてきて、ガードレールの向こう側の藪がざわざわと音を立てた。生ぬるい風に青臭さが混じる。おまけにかさこそと草葉をかきわけるような気配を感じた。

 小さな獣が住んでいる。町の中にも、人間の知らない世界が蠢いている。

 知らなかった、タヌキがいたのか。

 一瞬、赤く光る二つの目玉と毛むくじゃらの体を見た。足を止めなかったのと、相手も僕と懇意にするつもりがなかったのとで、それはごく一瞬の邂逅に終わった。

 下り坂も終わった。

 僕のランニングシューズは、なんら追い風のない、ほぼ水平のアスファルトを踏み続けていた。

 ぜいぜい。

 何の音かと思ったら、それは僕の喉の奥から絞り出される喘鳴だった。

 下り坂で早く走りすぎたのだ。楽をしている気分でいたが、実際、体力は消耗されていた。汗もだくだくと零れており、今にも立ち止まりそうになりながら、僕は走っていた。

 (ああ、なんでこんなに走っているんだろう)

 ぱあっと目の前が白くなったかと思うと、普通車が一台、前から走ってきた。

 歩道を走っているのに、やけに車との距離が近く感じる。すれ違う時、多分、運転手は僕には気づいていなかった。

 走り続けることの怖さを、なぜだかしみじみと感じたーーああ、なんで僕は走っているんだろうーー風が吹くたび、藪が凶暴な音を立てる。ガードレールの足元から、きっと、人知れず蠢く夜の獣たちが僕を見上げているのだろう。獣たちも思っているのに違いなかったーーなんでこの人は、こんなに走っているのだろうーー立ち止まりたい、と、僕は思った。

 汗が目に入りそうになった。

 片手で拭いながら空を見ると、はっとした。

 

 これほどまでに、夜空が綺麗だなんて。

 というより、この都会で、まだこんなに星を見ることができたなんて、今まで知らなかった。

 時刻は今、0時半を過ぎている。

 

 橋の向こう側は、不眠の町だ。こうこうと明るい、色とりどりの輝きをともし続ける店や会社が地上を飾る。

 もし、僕がそっちの道を選んでいたならば、夜の藪や、闇の中のランナーに気づかない車に怯えることはなかっただろう。

 だけど、こんなに綺麗な星空を見ることも、なかったのに違いない。

 大気が揺れているのだろうか。

 僕の頭上遥か彼方にちらばる星たちは、どれも細かく瞬いていた。

 (走ろう)


 日本には良い家具がたくさんある。

 それは、伝統ある家具メーカーがあるからだ。

 もちろん日本だけではない。アメリカにも、シンガポールにも、素晴らしい家具のメーカーは存在する。優れた家具職人は世界中に存在する。

 職人たちは、1ミリの狂いも許されない家具製作に取り組んでいる。たった1ミリの狂いが、家具の価値を左右する。

 その、とてつもなく厳しい世界を、僕は垣間見ている。

 (なんて、凄い)

 自分の仕事に妥協を許さない家具職人たち。そして、職人たちによって成り立つ家具メーカー。

 僕は、彼らのこだわりに感動した。心が震えた。職人たちは自分たちの家具を「良い物」にするために、日々、戦いのような家具製作を続けている。

 世の中には家具が山のように溢れている。消費者は自由に好きな物を入手することができる。何を「良い」とするかは人それぞれだ。それは、僕だって分かっている。

 安くて見栄えが良ければ、もちろん、人はそういう物に殺到する。それを「良い物」と考える。

 

 ぜいっ。

 ぜいっ。

 僕は走っている。足がどんどん重くなり、スピードは極端に落ちていた。

 疲れていた。全身が悲鳴を上げている。一体、どれくらい走ったんだろう。

 ああ、喉が渇いた。

 休みたい。休みたい。

 良い家具を世の中の人に伝えたい。そして、良い家具に囲まれて幸せな人生を送って欲しい。僕の主張が、人々の価値観の中に取り入れられて欲しい。

 その思いが溢れて、パンクしそうになって、走らずにいられなかった。

 くたくたになるほど走れば、もしかしたら何か良い案が浮かぶかもしれない。そうじゃなかったとしても、僕の中の焦燥が少しは落ち着いて、楽になれるかもしれない。

 そんな思いで、真夜中のジョギングを唐突に始めた。

 だけど、嗚呼。

 (ただ疲れただけだ)

 今にも足が止まりそうになる。ちょうどその時、僕の視界に夜道を照らす光が映った。

 自動販売機があった。

 何でも良い、飲みたかった。そこで足を止めて冷たいものをあおり、それでもう、今日のジョギングは終わりにしたかった。

 もういいじゃないか。

 走って何が変わるわけでもない。

 

 足を止めようとした時、ウエストポーチの中で、スマホが鳴った。

 ラインが、入っていた。

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