僕は良い物を追い求めたい 第3章: 伝えてゆきたい

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カヴァース小説部

第3章: 伝えてゆきたい

 ラインは、会社のスタッフからだった。仕事の確認のメッセージである。

 明日の某企業とのズーム会議は、僕たち「カヴァースジャパン」にとって大事なものだ。そのことは、僕だけではなく、社員全員が知っている。

 プレゼンの内容について、ここをこうしたらどうだろうという、最終確認のライン。

 僕は小走りで走りながら、ラインをチェックした。そして、それで良いと思うから、明日の11時までに資料の一部分を作り直して欲しいとメッセージを返しておいた。

 こんな時間まで、一生懸命、仕事のために知恵を絞っているスタッフがいる。

 ラインを送ってくれた彼女はもちろん、僕が今、起きているなんてーーましてや、ジョギングの最中だなんてーー思っていないだろう。いつも僕は、朝になってから連絡を確認する。基本、しっかり休みたいし、スタッフにも休んで欲しいと思っている。

 ぴろん。

 ぴろろん。

 走っているうちに、ラインは次々と入った。

 あの社員からも。

 あの社員からも。

 ああ、あの社員もまだ、起きているのか。

 入ってくるラインは全て、仕事のものだった。

 明日の会議について。新しい企画の提案。もっとこうすれば会社は良くなるのではないかという意見。

 ゆっくりと走りながら、僕は一つ一つに返信をする。

 既読マークが次々について行く。みんな、了解してくれている。

 おやすみ。

 もう、やすんでください。

 心から、僕は思う。

 (ありがとう、君たち) 

 気が付くと、さっきの自販機を既に通り過ぎていた。喉の渇きはあったが、もう、あの自販機に引き返し、安っぽい飲料で満足したいと言う気持ちは消えていた。

 

 ぜいっ。ぜいっ。ぜいっ。

 息が荒くなりすぎて、喉が痛いくらいだった。

 足は重かった。全身、汗だくだった。

 ふらふらと足元がおぼつかなくなる。

 そんな僕の進む先に、お店の看板が見えた。

 それは、ガードレールの間から、ひょこっと覗くような看板で、蛍光塗料で矢印が力強く描かれてある。

 そのドーナツ屋の店名を、僕はどこかで聞いて知っていた。テレビだったか、雑誌だったか、もしかしたら誰かから「ここは美味しい」と教えてもらったのかもしれない。

 その素敵なお店が、こんな近くにあったのか、という単純な驚きと、「24時間営業」という思いがけない情報が看板に記されていたのとで、僕の心は完全に決まった。

 その店に行こう。

 それから休んで、うちに帰ろう。

 すぐ目の前で、ガードレールは切れている。かわりに十字路が現れた。真っすぐに行こう。真っすぐいった先に、僕の目的地があるのだから。

 それにしても。

 (僕は、手ごろな自販機で渇きを癒されることすら赦されないらしい)

 一服したいだけなのに、「良い物を口にし、良い場所で体を休めよ」ということなのか。

 

 僕は、僕自身に対して、妥協を許さない。

 妥協したくない。

 走り慣れてきた足は、ゆっくりと一定のテンポで前に進み続ける。

 やがて、少しずつ町の明かりが見え始めた。鬱蒼とした雑木林はもう消えた。コンビニが一つ。そこを通り過ぎると、コインランドリーや書店がぽつりぽつりと現れ始め、やがて、目的のドーナツ屋の看板が見えてきた。

 ああ、とか、うう、とか、呻きを上げながら、僕はなんとか店の前までたどり着くことができた。

 お店の前でやっと足を止め、体を二つに折り曲げて、ぜいぜいと大息を付いた。

 甘い香りが漂っており、お店の窓はあたたかく優しく輝いていた。店内からは、趣味の良いBGMがうっすらと聞こえている。

 僕は体を伸ばした。

 頭上の空には星が瞬いている。

 見上げた瞬間に、流れ星がすっと飛んだ。幸先が、良いようだ。


 人の数だけ価値観がある。

 何を良いとするかは、人それぞれだ。

 

 僕は、やはり、良い物を追い続けたい。良い物を求め、良い物に囲まれていたい。そうすることで確実に幸せになれるからだ。

 

 辿り着いたそのドーナツ屋は、噂通りの素敵な場所だった。

 深夜なので客は少なく、僕は奥のテーブルを独り占めできた。汗だくの僕を、店員さんは気持ちよく迎えてくれた。流れている曲も、照明の具合も、何もかもがベストだった。こんなに良い場所がこの世にあったのか、と思うほど、その店は完璧だった。

 (どういうわけだろう、こんなに居心地が良いのは)

 お冷を飲み干して、僕は不思議に思う。

 これまで、色々な飲食店を見てきた。だけど、これほど素晴らしい場所は他にあったろうか。疲れてやっとのことでたどり着いたから、余計にそう見えてしまうのかもしれないが。

 注文したドーナツとコーヒーが届く。

 ああ、この皿とカップ&ソーサ―。ウエッジウッドの品だ、と、僕は気づく。さりげなくて、愛らしくて、品がある。触れた感じも、カップに口をつけた感触も、どれも良い。間違いなく一級品である。

 この店は他にも、色々とこだわりがあるようだ。コーヒーを飲みながら、お店の中を見回した。

 そして、納得した。

 ああ、これは居心地が良いはずだ。

 このテーブルと椅子。間違いがない。

 このお店では、僕が敬愛する家具メーカーのインテリアがふんだんに使われている。

 本当に良い物で溢れているのだ。

 僕は、幸せを感じた。

 この上なく、幸せだった。

 ゆったりくつろげる椅子の丸み。美しいテーブル。

 

 細やかな職人の技が施された品々は、極上の時間を使う人に与えてくれる。

 良い物に触れているだけで、人は癒されるのかもしれない。

 僕はどんどん癒され、疲れていた体に力がみなぎってくるのを感じた。

 そして、改めて確信する。

 僕の主張は正しいのだ、と。

 人は、良い物に囲まれて過ごしたならば、きっと、最高に幸せになれるに違いないのだと。


 伝えてゆきたい。

 もっと多くの人たちに、伝えなくては。

 コーヒーを飲み干して、僕は心から幸福を感じる。

 この幸せを、もっともっと多くの人と共有できたらと、本当に、願うのだ。

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