おうちに帰ろう 第1章: オアシスへの道のり

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カヴァース小説部

第1章: オアシスへの道のり

絶望的な状況の中で、人が一番必要とするものは何だろう。

例えば、ここが無人島で、海は荒波、陸地はジャングルばかり。そんなところに放り出された場合、最初に欲しくなるのは何か。
食べ物とか飲み物とか。

それも確かに大事だけど、絶望的な状況の場合、人が最も求めるものは「安心」ではなかろうかと、わたしは思う。
安全、安心。当たり前のようでいて、奇跡のように貴重なことだ。
というか、常に安心安全であるならば、人生、不安なんかないだろう。

わたし、榊原そらみは31歳にして、再就職をした。


大学卒業後、勤め続けてきた会社を辞めて、今のオフィスに採用された。
まだ若いから大丈夫、と、周囲に言われたし、正直、このオフィスの求人を見た時、今がチャンスだと思ったのは否めない。けれど、現実はそんなに甘くなかった。

「榊原さんってぇ、おいくつなんですかぁ。えー、31歳ぃ」
(まさか、配属先の子が、二十代ばかりだったなんて)

企画課は一課と二課がある。わたしが配属されたのは一課のほうだった。それは、今までの経験を見込まれての配属だろう。
実際、仕事内容は問題なかった。これならやれる、と思った。
けれど、どうしても新しい環境で仕事をするとなると、その場所固有のこまごまとしたルールがある。なんと言っても、転職したばかりのわたしは、物品の保管されている場所だの、掃除当番だの、何もかもが分からない状態なのだ。
そういうことを教えてもらわなくてはならない。
そういうことができてこその、社員なのだから。

自分より年下の子たちが、掃除の時に使う掃除機だの、ゴミ袋の扱いだの、どことどこのゴミ箱のゴミを収集するだのという下らないことを牛耳っていて、そのルールを知らないというだけで、あからさまにマウントを取ってくる状況は、結構辛い。

「えー、このゴミ袋使った人誰ぇ。こっちのほう使うじゃん、普通」
「やだー、これやってない。誰ぇ、当番の人ぉ」

入社して少しずつ仕事に慣れてくる頃から、聞こえよがしに言われる陰口。
女子たちは分かっていて言い合うのだ。ゴミ袋はどれを使うのが彼女らの「ルール」なのか。給湯室の整理をする当番は、どういう順番で回ってくるのか。そういったことを、きちんと教えてくれないまま、分かっているだろうと(そもそも、どうしてきちんと教えてくれないのに分かっていると決められるのか、わたしには理解ができない)いう前提で、ねちねちとその都度、言い合っている。

わたしはと言うと。

「あっ、すいません、わたしです。知らなくて」
と、慌てて走ってゆく。
けれど、女子たちは「あーあ」という顔をして、ため息をつきながら後始末を始めている。

(わたしを仲間に入れてくれる気、あるのかなぁ)
 
同僚の女子たちは、皆、仲が良い。つまり、わたし一人が浮いているというわけだけど。
岡田まりかちゃんとか、園部みりなちゃんとか、まるで大学生みたいなノリでキャッキャしている。休み時間にはトイレや給湯室で喋っていて、すごく入りにくい。
まりかちゃんは25歳で、みりなちゃんは27歳だ。
二人とも、わたしの年齢を聞いたとたん黙りこくった。その時は、ありゃ年上だってことで気を遣わせたかなと思ったが、そんな甘いもんじゃなかった。二人は、わたしを年上だと認識した上で、徹底的なマウントを取り始めたのだった。

(まあ、この二人は若いから人の気持ちが分からないって思えば・・・・・・)
 
高田聖子さん。45歳。企画一課の最年長者で、お局様だ。役職はついていないけれど、影のリーダーといったところか。女子たちも、聖子さんには気を付けている。聖子さんを怒らせたら、次の日から仕事が回ってこなくなるからだ。
聖子さんは女子たちの仕事を采配している。そういう役職と言うわけではないが、自然にそうなっている。
この人は、本当に怖い。
「榊原さん、ちょっと」
呼ばれると、胃がきゅっと縮むのだ。眼鏡の奥の目は、鋭く光っている。
「これしたの、貴女。この書類はね・・・・・・」

カタカタ。カタカタ。
パソコンのキーボードを打つ女子たち。仕事に熱中しているように見せかけて、実は耳をダンボにしている。少なくとも、わたしにはそう思われる。
聖子さんにいろいろと指摘されているわたしのことを、見ている。そして、ほらまただわ、と後で言い合う。

「三十歳過ぎてから転職するもんじゃないわよね」
「っていうか、なんで仕事辞めたんだろ。なんか問題あったんでしょ」
「仕事できなかったからじゃない」

(トンネルが続いている)

貴重な休憩時間を、給湯室に行こうとして入ってゆけず、廊下の壁でぼんやりする。
真っ白な通路の壁に、昼間でもついている蛍光灯が反射していた。明るいのに、明るくない。先が見えない。


 
 思えば、このトンネルはずっと続いている。
 前の会社の時からだ。トンネルの中だと気づかずに毎日一生懸命で、疲れ切っていて、どうしてこんなにうまくいかないんだろうと思っていた。

(トンネルの中だからだ、良いことがなーんも、ないのは)


 それは、再就職して三か月目の晩のこと。

毎日の、「なんとも言葉にし難い辛さ」は最高潮を迎えていた。定時ちょうどに席を立った。「顔色が悪いわね」と、聖子さんが眉をひそめながらわたしを見上げた。返事をする気力もないまま、軽く会釈をして逃げるようにオフィスを出る。
「あれっ、おつかれ」
出入り口で加納チーフとぶつかりかけたが、これも会釈で交わして通り過ぎた。
加納チーフは、29歳のイケメンだ。感じの良い人だとは思うけれど、このオフィスでは若い女子たちに囲まれているので、わたしの心理として、どうしても遠巻きにしてしまう。直属の上司に当たるのに、相談事などできるわけがなかった。

もういいんだ、と、泣きそうになりつつも、自分が本当はどうしたいのかもよく分からないまま、町の中に繰り出した。
そのままわたしは、前の会社の時から行っていた、街角の小さな飲み屋に向かったのだった。

あの、赤のれん。
暗くなりかけた町の中で、ふわんとオレンジ色の灯が内側から漏れ出している、温かで居心地の良いお店。

思えば、それがきっかけだった。
わたしが、この長いトンネルの中で、貴重な「オアシス」を入手しようと重たい腰をあげるための、最初のステップだったのだ。

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