長くまっすぐな道 第3章: 「良さ」から目を逸らさずに

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カヴァース小説部

第3章: 「良さ」から目を逸らさずに

 大正10年は、カザマが創業した年。

 大正時代と言えば、大正デモクラシー。それから、米騒動。映画にもなったなあ。関東大震災は大正12年だ。

 いろいろな出来事がぎゅっと濃縮したような時代だったんだろう。

 大正10年は、今も歌われる有名な童謡がいくつもできた。この年、アインシュタインがニュートンの墓を訪れ、翌年にノーベル賞を受賞する。

 (本物が、芽吹いた年)

 本物は、残るものだから。

 おばあちゃんの言葉が蘇る。

 


 そろそろ貴重な有休休暇も終わりに近づいた。

 休憩はおしまい、また戦いの日々が始まるのだ。それを思うと、げんなりするような、よしやるぞと闘志が湧くような、変な気分になる。でも、どっちにしろ、暇なのはもう沢山だった。いくら休みをもらっても、どこかに行って遊びたいわけでもなく、寝ようと思っても昼からぐうぐう眠ることなどできない。

 結局、本を読んだり、パソコンをしたりして終わってしまった。

 まあ、そんなもんだ。休みなんて。

 今のうちに、今度こそゆっくりしようかな、と、ベッドで伸びていた。

 かたんごとんと郵便受けに何かが入れられる音がした。何だろうと思って玄関に降りてゆくと、とても可愛いハガキが入っていた。

 なにかのキャラクターがプリントされたハガキ。

 たどたどしい子供の大きな文字で、あて名が書かれている。

 真田こと様

 どきりとした。おばあちゃん宛てのファンレターらしい。

 もう亡くなって何年もたつのに、未だにおばあちゃんに手紙をくれる人がいるのだ。しかし、今回のは随分幼い子供のようだ。

 (顧客に、こんな子供がいたんだろうか)

 ぴらぴらハガキを揺らしながら家の中に戻った。

 おばあちゃん宛てのハガキだから、おばあちゃんの椅子に座って拝読するのが筋だろう。縁側を覗くと、良い感じに温かな光が差し込み、居心地が良さそうだった。

 「おばあちゃん、手紙来たよー」

 読むよー。

 そう断りながら、籐の椅子に座った。

 チチチ。

 庭では、丸く羽根をふくらませたスズメ達が草の中で何かをついばんでいた。


 真田こと様

 真田こと様に、おかあさんが作ってもらった赤い毛糸のワンピースを、いま、わたしが着ています。

 すごく気に入っています。

 胸のところの青い小鳥がかわいいので、名前をつけました。

 ピーコといいます。

 わたしはどんどん大きくなるので、ワンピースはそのうち着られなくなります。

 だけど、大事にします。もしかしたら、また誰かが着るかもしれないし、その時はまたお知らせします。

 ありがとう。

 元木みりな


 ハガキの余白に、青い小鳥の絵がクレヨンで描いてある。

 こんなものを読まされて、涙ぐまない人がいるなら教えて欲しい。読んでいるうちにどんどん胸が熱くなって、最後は涙が垂れてきて、ついにわたしは撃沈した。

 

 おばあちゃん。

 おばあちゃんに読ませてあげたかったよ、この手紙を。

 このハガキは家宝にしよう。とりあえず、神棚にあげておこうか。いや、仏壇だろうか。

 

 ひと目ひと目、大事に大事に、慎重に、でも手早く編んでゆくおばあちゃんの丸い姿が思い浮かんで仕方がなかった。

 この籐の椅子で作り上げた毛糸の作品は、数えきれないだろう。それらの品物は人々の手に渡り、喜んで着られた。やがてサイズが合わなくなったり、いろいろな事情で着られなくなってしまう。

 でも、それを大事に残しておいて、次の世代に渡してくれる人もいる。

 

 それが叶うのは、やっぱり、おばあちゃんの毛糸の品物が、すごく良いものだからだろう。

 丈夫で長持ちして、世代を超えて好まれるデザインで。

 

 おばあちゃんの毛糸物は、お店で売られているセーターや手袋と比べたら、確かに高かった。それいくらで作ってるの、と聞いたことがあったが、けっこう良い値で驚いたものだ。

 だけど、その価値がある。

 間違いなく、おばあちゃんの品物は良いものである。

 ハガキをくれた子の毛糸のワンピースも、その子のママが使っていたものらしいから、もう十年以上前に編まれたものに違いなかった。

 「偉大ですわ。敬服します」

 

 洟をすすりながら、座っている籐の椅子に向かって言い、ハガキをありがたく押し頂いた。

 その時、ぽんと軽く頭を叩かれたような気がした。

 だからね、言うんだよ。時間がかかっても面倒でも、本当に良いものは、残るんだ。

 今現在、たった今だけを見て、簡単で便利なものを選ぶのも、まあ一つではあるけれど。

 

 それじゃあ、残らないんだ。それじゃあ、選ばれない場合も多々あるんだよ。

 「あ」

 叩かれたような気がする頭に手をやりながら、わたしはぽかんとした。

 (今、おばあちゃんがいたような・・・・・・)

 しかし、縁側はただ静かなだけだ。相変わらず穏やかに日がさしていて、庭ではスズメが賑やかだった。

 小春日和のぬくもりが籐の椅子に満ち足りて、そこにはずっと居たくなる、癒しがあった。


 「本当に良いもの」の、「良さ」は事実であり、真実だ。

 けれど、どうしてそれは選ばれない場合があるんだろう。なんで、その「本当の良さ」をスルーして、もっと楽で、もっと早くて、もっと安価なものを、人は求めるのだろう。

 

 いや、それは間違いではない。それが必要な場合もあると思う。

 だけど、そればかり重視して、そればかり選ばれて、「本当に良いもの」がなくなってしまうとしたら、これほど悲しいことはない。

 多分、みんな知っている。「良さ」を知っている。それが「良いもの」だと知っている。

 だけど、「良いもの」から目を逸らしてしまい、もっと楽なほうを見てしまう。

 人は弱い。けれど、弱さばかりじゃない。

 「本当に良い」ものの「良さ」を分かる人もいて、それだから今も、「良いもの」が残っているのだ。

 籐の椅子の温もりに包まれながら、わたしは思った。

 「良さ」を選ぶのは、強さなのだ。

 (強くありたい)

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