光に沈む 第1章: 思い出とこれから

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カヴァース小説部

【連載】光に沈む - シーリーとの運命の出会い -

第1章: 思い出とこれから

「だからさ、人生の三分の一はベッドで過ごすわけじゃない?」

 眞理子はそう言うと、ジャガード織りの表布をゆっくりと指でなぞった。眞理子のナチュラルなピンクのネイルが、このベッドの豪華さをより引き立てているようにも見えた。

「でもさ、なんだか想像つかないんだよな。自分がこんなにも豪華なベッドで寝るなんて」

 家具店に入ると、眞理子は一直線にベッドのコーナーに向かっていた。もともとこの店に欲しいベッドがあるのを知っていたのかもしれない。

「想像もなにも寝たことあるじゃない。この前旅行に行った時に泊まったホテルのベッド、このブランドだし」

「え、あのふっかふかのやつ……?」

「そう。シーリーのベッドってアメリカじゃシェア一位だよ。稔はもうちょっと自社商品以外のシェア率とかも気にした方がいい」

眞理子にはっきりとそう言われると、返す言葉がない。彼女は二十代で係長になったうちの会社でも注目度の高い人材だ。かくいう俺はやっと昇進が決まったばかり。そのお祝いに家具でも買おうという話になり、今に至っている。

「うーん、そうだな。確かにあのベッドは良かった」

「でしょ。高い車買うより、はるかに堅実な買い物よ」

 眞理子の話には説得力がある。なぜ彼女が俺なんかと付き合ってくれているのか、今でも疑問に思うくらいだ。それに、もう付き合って一年半になる。お互いの年齢のこともあり、結婚も視野に入れていた。ふたりで使うものと思えば――

「わかった。これ買うことにするよ」

眞理子の表情がパーッと明るくなる。気のせいか、肌のトーンまで上がったように見えた。

「さすが稔ね。マンションの部屋、広いのに寝室が寂しいから少し心配してたの」

 まるで悪戯を企む子どものように笑う眞理子を見ると、こっちまで嬉しくなってくる。会社では見られない、俺だけが見ることのできる表情だった。

 支払いを済ませ、店員から渡された用紙に住所を記入する。二年前、賃貸で家賃を払い続けるくらいなら、とローンで購入したマンションの住所は長い。紙をもう少し大きくしてくれと思いながら、これからどんな寝室になるだろうかと期待を膨らませていた。

「ベッドが届いたら泊まりに行くわね」という眞理子に「ああ」と一言返す。緩んだ表情を店員に見られていなかっただろうか。


 翌朝、そのまま取引先に直行することになっていた。大切な契約書を受け取り出社すると、何やら社内がざわついている。眞理子の姿を探したが見当たらないので、俺は同僚の田中に話を聞くことにした。

「おはよう。なにかあったの?」

「さっき本社の専務が来てさ、木城係長に海外赴任の辞令が出たらしい」

 ――辞令? 眞理子が?

田中は俺の動揺なんて気にもせずに、話を続けた。

「すげーよな。木城係長の能力を考えると納得だけど、女性社員のニューヨーク支社への異動ってうちの会社じゃ初めてらしい」

俺が係長に昇進したのを考えると、他の役職に動きがあってもおかしくない。でも、まさか眞理子が海外だなんて……。言い渡された現実に、手の力が抜けていく。大切な契約書を入れた鞄が、タイルカーペットの床に落ちていった。

「おい、大丈夫か」

 田中は俺が落とした鞄を拾って、胸の前に差し出してくれた。両手でそれを受け取ると、鞄はずいぶんと重くなっているような気がした。

「自分より年下の係長が活躍して動揺するのもわかるけど、お前だって昇進したばっかりなんだ。しっかりしろよ、海堂係長」

「……すまん。ありがとう」

 田中はにやりと笑うと、自分のデスクに戻っていった。俺もデスクに座り、鞄から契約書を取り出して並べていった。取引先でも契約内容は確認したが、万が一のためにもう一度確認するようにしている。俺のいつもの仕事のやり方だった。

印鑑はあるか、記名に漏れはないか、日付は合っているか……該当箇所に指さしをしながら確認していく。その合間合間に、眞理子の顔がちらついた。仕事に集中しなければならないと思うほど、眞理子が本社の専務とどんな話をしたのかが気になって仕方なくなる。

 眞理子のデスクも、部長のデスクも席は空いたままだ。きっと、今後について話をしているのだろう。――まぁ、眞理子が戻ってきたところで、海外赴任をどうするんだ? なんて会社で聞くことはできない。そのことが、余計に俺の胸をざわつかせた。


 眞理子と付き合ったのは、俺の仕事がうまくいってなかった時だった。仕事の相談をしているうちに親しくなり、飲みに行く間柄になると付き合うまでにそう時間はかからなかった。眞理子は当時から係長でバリバリに仕事をこなす理想の上司だったし、部下への心くばりもできる人で、そのうえ“恋愛をしている姿が想像できない人”だった。「キレイだけど、仕事に生きてるよね」なんて言われているのも聞いたことがある。

眞理子が「あえてそのイメージになるように努力している」と話していたことを思い出す。眞理子は仕事が楽しめる人だったし、好きなことのために頑張れる人だった。なので、俺達が付き合ったことを会社で公言しないことも、当然のことだったと言える。

 あくまでも、気心の知れた上司と部下だった。

 遠くで電話が鳴ってふと我に返る。契約書を指さしたまま考え込んでしまっていた。視界の端にデスクに戻る眞理子の姿が見える。眞理子を慕っている数人の女性社員が彼女のもとへ駆け寄っていった。あの子達のようにすぐに眞理子に話を聞けたら……すっきりとした気持ちで仕事ができるかもしれない。なんて、バカな考えが頭によぎった。眞理子の能力が認められたことを素直に喜べていない自分が心底嫌になる。あのベッドを買うことがきっかけで、眞理子との結婚は現実味を帯びていたように感じていた。それなのに、海外赴任は結婚への障害となるかもしれないと考えてしまっている。

 夜、眞理子に連絡しよう。ボールペンを取り出して、二回ノックする。ゆっくりと深呼吸をしてから、パソコンの画面を開いた。


 自宅マンションに着いて部屋に入ると、外よりも気温が低いように感じた。四月に入ってもまだ寒い日が多い。ネクタイを外してソファーに放り投げると、鞄からスマホを取り出した。

 スマホには何の通知も来ていない。まぁ、さっき電車の中でも確認したばかりだから、当然かもしれない。眞理子からの連絡を期待したけれど、やっぱり自分から送るしかないな。

……なんて送ろうか。

栄転おめでとう! 違う。

まさか、行かないよね? 違う。

文字を打っては消してを繰り返す。違う。いや、間違っていない。どれも俺の心にある気持ちで、ただ、どれを伝えたらいいのかがわからないだけなんだ。

 ソファーにもたれかかり、視界を手で覆う。きっと、さっき放り投げたネクタイみたいな恰好になっているんだろう。結婚を考えていたならさっさとプロポーズでもしてりゃ良かったんだ。それなのに、今の立場だと……なんだか中途半端で。

「まだなにも聞いてもいないのに、なにを落ち込んでるんだ」

 勢いよく姿勢を戻し、もう一度スマホを持った。メッセージアプリを開いて、俺は慎重に文章を考える。ビジネス文書を打っている時の方が、まだ気楽だった。

『今日もお疲れ様。田中から聞いたけど、海外赴任の打診があったらしいね。眞理子の努力を知っているから、ちゃんと会社に眞理子の能力が認められて俺も嬉しいよ。本当におめでとう。詳しいことが決まったら、また教えて』

 結婚したいから、日本で頑張るつもりです。なんて言ってくれてたりしないかな。邪な考えが出てきてしまう。サイドボタンを押して画面をスリープすると、嫌な顔をした男が映っていた。画面をしばらく見ていると、メッセージの通知と一緒にその男は消えた。

『ありがとう。少し、考えさせてほしい』

 眞理子からの返事を読むと、今日の疲れが一気に押し寄せてきた。わかっている、眞理子は何も悪いことをしていない。努力が認められただけだ。

『うん。大切なことだからゆっくり考えていいと思う』

 既読のマークはすぐについたが、このあとに眞理子からメッセージが届くことはなかった。


 月曜日に連絡をして以来、眞理子と話せていない。会社で仕事上の会話はするけれど、なんとなく連絡をしにくい雰囲気になっていた。海外赴任、しかもニューヨークなんだから俺との関係だけじゃない。家族や友人、色々なものについて考えなければいけないはずだ。

 眞理子が会社で歩く姿が眩しく見える。背筋を伸ばし、まっすぐに歩く彼女はかっこいい。

「海堂係長、報告書の数値間違ってるよ」

「あ、悪い」

田中が印刷した報告書を俺のデスクに放る。眞理子と自分の差にため息しかでない。

 土曜日、俺は朝からベッドを解体していた。二十二の時から使っていたシングルベッドは、想像よりも早くバラバラになった。十年間も使っていたし、物持ちはいい方だと思っていたが、よく見るとマットレスの下のすのこが割れていた。どうりで、腰が痛いはずだ。部長が「年を食うと寝るのも疲れる」とか言うのを聞いて怯えていたけど、決して年のせいではなかったんだな。すのこを細かく折り、部屋の隅に重ねていく。これからシーリーのベッドが届く。スペースを開けておかなければならない。

 捨てるものをまとめていると、宅配便が届いた。丁寧に梱包された、大きな大きな荷物だった。

 ダブルサイズのベッド、そしてマットレス、梱包を見るだけで圧倒される。感じの良い配達員を見送り、俺は少しずつ梱包を解いて、ベッドを組み立て始めた。ベッドが届いたら泊まりに来るって眞理子は言っていたが、結局今日まで眞理子から連絡はなかったし、俺も連絡をしなかった。

眞理子との出会い……付き合い始めの頃や、会社を出てから隠れて待ち合わせをしたこと、今までのことを思い出しながらゆっくりとベッドに向かい合う。この前一緒にこのベッドを注文した日を思い返したとき、ちょうどこのベッドは完成した。そこには、まるで別の空間になったかのような寝室があった。

完成してから気づいたが、ベッドシーツや枕を買っていない。表布のデザインまで豪華なので、今の今まで忘れていた。まぁ、いいか。少し疲れた。横になると、ちょうどいい反発力を持っているのに、身体全体を包んで、支えてくれるような感覚があった。

「これなら、腰の痛みとはおさらばできそうだな」

 独り言を呟いても聞いてくれる人はいないが、買ってよかった。スマホを取り出すと、俺はまた何度も調べたことを検索する。

[海外赴任 期間 平均]

 虫眼鏡のマークをタップすると、もう何度も見た内容が表示される。

[赴任期間は三年、五年、八年のことが多いが、この限りではない]

――眞理子は、俺と別れて、何もかもニューヨークで新しく始める方がいいのかもしれない。仕事も、恋愛も、彼女の邪魔になるような存在には、なりたくない。

 マットレスに顔を埋めると、メッセージの通知が届いた。眞理子からだった。

『私、ニューヨークで頑張ってみたい』

『そうか。頑張ってな』

 メッセージの送信を確認すると、俺はそのまま目を閉じた。

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