光に沈む 第2章: 決意

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カヴァース小説部

【連載】光に沈む - シーリーとの運命の出会い -

第2章: 決意

 日曜日の朝は、気持ちとは裏腹に雲ひとつない青空だった。これだけ長く寝たのに体が痛くないのは久しぶりの感覚だ。カーテンを開けてぐっと背伸びをする。朝日に照らされるマットレスに座り、スマホを見る。何のメッセージも届いていない。

――ああ、この恋は終わったな。なんとなく、そう直感してしまっていた。三十も超えているのにみっともなく女にすがりたくない。また新しく始めたらいい。きっぱりと割り切り、眞理子を応援してやればいい。

 窓を開けると風が部屋にすっと入ってくる。そうだ、ベッドシーツを買いに行こう。読書もできるように、サイドテーブルやスタンドライトを買ってもいいな。枕もクッションも買おう。さぁ、忙しくなってきたぞ。顔を洗ってシャツに袖を通す。朝食は、食べたくないな。車のキーを指にかけると、俺は足早にマンションを出た。

 家具店に着くと、ほとんどが家族連れの客で埋まっていた。子どもにとって広い家具店は公園みたいなものなのだろう。元気に走り回っている。どうせ時間も余っているので、ゆっくりとどんな寝室にしようか考えながら見て回ろう。

ベッドコーナーをまわると、買ったベッドフレームとマットレスがあった。『ホテル品質の睡眠へ』煌びやかなキャッチコピーとともに、ひと際目立つように展示されているベッド。今、このベッドと同じものが俺の部屋にもあるなんて、少し信じられないくらいだった。シーツは安いものもあるからピンキリだけれど、適当に選んだらシーリーのベッドのラグジュアリー感がなくなるような気がする。どうしようか。悩んでいると、後ろから聞き慣れた声がした。

「あれ? 海堂係長じゃありませんか?」

 振り向くと、そこには部下の秋成杏奈がいた。二十代前半で比較的新しい社員だが、愛嬌が良く、評判もいい社員だ。春らしい色の服装で、会社で見るよりずっと若く見えた。

「秋成さんか。こんなところで会うなんて珍しいね」

「本当ですね。春だから、なんだか模様替えしたくなっちゃったんです。海堂係長はどうしてここに?」

 秋成は小首をかしげた。家具店に来ているんだから買い物に来たに決まっているだろうとは思いつつ、その動作が可愛いと感じてしまった。

「俺はね、この前そこにあるベッドを買ったんだけど、シーツとか買うのを忘れていてね。それで今日きたってわけ。ドジだと思ったろ?」

「――シーリーのベッド買ったんですか!? 海堂係長センスいいじゃないですかぁ!」

 秋成は大げさに驚き、目を輝かせていた。俺が買おうと言い出したのではないのだけど、部下にいい顔ができるのはちょっと誇らしい気分だった。

「……でも、あのベッドダブルサイズですよね? 海堂係長、お付き合いされている方いたんですか?」

――しまった。迂闊に話すべきじゃなかった。

「いや、その、俺寝相悪くってさ?」

 秋成は「そうなんですかぁ」と言いながら、見透かしているかのような瞳で俺を見ていた。どうしていいのかわからず固まっていると、秋成は続けた。

「ま、そう言うならそれでもいいですけどね。私はてっきり、一緒にベッドを選んだ人がいるのかと思っちゃいました。例えば、海外赴任の予定がある方……とか」

 ちょっと待ってくれ。間違いなく見透かされているというか、バレている。恋人がどうとかじゃなくって眞理子との付き合いまで。ここで変に否定する方がおかしくなりそうだ。というか、俺は嘘が下手なのに――

「海堂係長、大丈夫ですよ。誰にも言いません。前にね、偶然ふたりがデートしてるところを見たんです。誰にも言ってないので、安心してください」

 秋成はそう話すと目を細めて笑った。

「そ、そっか。何か悪いな。うん」

「でも、知っているからこそ気になってたんです。木城係長、海外赴任するのに海堂係長とどうなるんだろうって」

「……どうなるもなにも、木城係長はニューヨークでも今までと同じように頑張ると思うよ。だから、ベッドをせっかく買ったけど、今はひとりってわけ」

 誰にも相談できる環境じゃなかったので、つい愚痴のようなニュアンスで話してしまった。俺が苦笑いすると、秋成は軽く微笑む。

「……そうですか。それなら、ここで出会ったのも何かの縁ですし、私で良ければ買い物付き合いますよ」

「それは助かるな。あまりセンスが良くなくって、どんな寝室にすればいいのか迷ってたんだよ」

「なんかそれ、わかります」

「どういう意味だよっ」

 秋成が高い声で笑うと、つられて俺も笑ってしまった。たった一週間くらいのことなのに、笑うのはずいぶんと久々のように思えた。

 一緒にベッドルームアクセサリーの売り場に入る。丁寧に商品が陳列された売り場は清潔感に溢れていた。上司と後輩という立場のせいか、少しいけないことをしているような気分になるが、そんな風に思っているのを気取られたくなかったので、つい焦ったように話しかけてしまう。

「ベッドはさ、さっきのなんだけどオススメとかあるのか?」

「そうですね……やっぱりシーツは白一択です! 使いやすさもそうですし、白だと安価なものを使って、汚れたら捨ててもいいですし」

 なるほど。安価なものを買っておいたら気兼ねなく捨てられるのか。

俺には全く考えつかなかった選び方なので、正直驚いた。眞理子からも絶対聞けないようなアイディアだ。眞理子はああ見えて、気に入ったものを長く愛用する人だった。化粧品の類も新作にはあまり手を出さないと話していたのを思い出す。「気に入ったものを長く使いたいし、そういう製品を自分も作りたいと思うの」なんて、話していたな。

高そうに見えるマニキュアだって、よくよく話を聞けばプチプライスで揃えていたりして、そのギャップに惹かれたんだ。「値段とかじゃなくって、この色が好きなのよ」なんて――

「海堂係長! 聞いてますか?」

「ご、ごめん! 白のほかにオススメはある?」

「んー、ほかに私だったらパステルカラーとか好きですね。部屋全体が明るくなって、優しい印象になると思います」

 ……これ、眞理子が苦手そうな色だな。たぶん、眞理子ならもう少し重厚なものを選ぶ気がする。少し離れた場所に置いてあったシーリーのボックスシーツに目を遣ると、その中にサテンの光沢が美しいものがあった。ドゥナチュールのココア……か。

「……海堂係長は、そういう色の方が好みですか?」

「そうだな。暗めの色の方が、落ち着いた空間になるかもって」

 せっかく秋成が提案してくれても俺は結局、眞理子のことばかり考えてしまっている。眞理子の好きな色とか、これは選ばないとか、そんなことばかり溢れて止まらない。

「なるほどですね。寝室は、家の中でも過ごす時間が多い場所だから。海堂係長が幸せだと思える空間を意識した方がいいかもしれません」

「――そっか。そうだよな。俺、この茶色のシーツにするよ」

「はい。……それ、木城係長が好きそうですね」

 秋成はそう言うと、眉尻を下げて微笑んだ。

「せっかく付き合ってもらったのに、悪いな」

「いいえ。もともとそうなるような気はしていたので。また今度、他の社員と一緒にランチでも奢ってくださればそれでオーケーです」

 レジに並び、シーツを購入する。秋成に何度も頭を下げて別れると、俺はすぐに眞理子に電話をした。五回のコールのあとに、聞き慣れた声が聞こえた。

「――はい、もしもし」

「眞理子、今どこにいる?」

「……大阪よ。ホテル・シグノリアにいるの」

 前にふたりで泊まったホテルだ。

「今からそっちに行きたい。伝えたいことがあるんだ」

 少しだけ間があいてから、眞理子の声が聞こえた。

「わかった。二十七階の、あの部屋にいるから」

「ああ、すぐに行く」

 電話を切ると、俺は駅まで車を走らせる。駅の有料駐車場に車を駐めると、シグノリアまで最短で行ける方法を頭のなかでシュミレーションする。新幹線と電車、タクシーを使えば三時間ちょっとでいけるはずだ。夕方までには到着する。切符売り場に並ぶ人、改札までの階段、そんな些細なものさえもどかしく感じてしまう。今、眞理子に会わなければならないのだ。

 新幹線は思いのほかすぐに乗れた。ここから二時間半は新幹線と一緒だ。壁にもたれかかり、自分の気持ちを整理する。

 もしかしたら俺は、みっともないかもしれない。三十を超えた男がするようなことじゃないのかもしれない。だけど、人生の三分の一をベッドで……寝室で過ごすなら、そこには眞理子がいてほしい。今は難しいかもしれない。でも、そのための空間を作りたい。

 これはたぶん俺のわがままで、眞理子にとっては負担になるかもしれない。それでも、伝えなければいけない気がする。何もかもが終わってしまうその前に。

 大阪に到着する。ここからは乗り換えの時間に余裕がない。小走りで人の波をすり抜ける。こんなにも急いでどこかを目指すことなんて久しぶりだった。ジャケットの中に着ているシャツが、少し湿ってきている。春限定商品の店を通り過ぎ、青春を謳歌している高校生の間をすり抜けて、俺はただ目的地へと走る。

ホテル・シグノリアは三十階建てのホテルで、大阪を代表するホテルだ。フロントの『まさに豪華』と言えるような上品な雰囲気は忘れられない。そのホテルにまるで似つかわしくない、額に汗を垂らした男が今、フロントに到着してしまった。

「すいません。二十七階の木城の連れなのですが……」

「海堂様ですね。木城様よりお話をうかがっております。どうぞ、あちらのエレベーターからお上がりくださいませ」

 丁寧なホテルマンの笑顔に会釈を返す。エレベーターに乗ると、二十七階のボタンを押した。少しずつ、数字がカウントアップしているのを見つめる。

 ここまで来るのに三時間もあったのに、どんな順序で、どういう風に眞理子に気持ちを伝えたらいいのか、考えはまとまっていなかった。

 ただ、眞理子とこれからも一緒に人生を歩んでいきたい。その気持ちだけが、この足を動かしていたのだ。ああ、かっこよく決めたいのに。今になってまた変なプライドが出てきてしまう。

 チン、と小気味よい音が鳴り、エレベーターの扉は開いた。その音はまるで、試合開始の合図のようにも思えた。

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