新たなスタートライン 序章: このソファで

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カヴァース小説部

序章: このソファで

 その、美しい本革のソファを見た瞬間に、心が決まった。

 「このソファを、うちに迎えよう・・・・・・」

 それは黒く、革の輝きを感じる。高級感と重厚さは、ずっとわたしが欲しかったものだった。

 だけど決して触れがたい雰囲気ではなく、どこかカジュアルで、日常生活のシーンに溶け込んでくれる懐の広さを感じる。

 受け止めてくれる。どんな一日も。どんな気持ちも。

 これは、そんなソファ。

 マンションのリビングの、日の当たるところにソファを置こう。

 そこには、人の頭くらいの玉サボテンの鉢もある。

 木製のティーテーブルを側にしたがえて、きっと、ソファはいつまでもどっしりと、そこに居てくれるだろう。

 わたしのために。

 それは、馬場家具というメーカーで作られた黒いソファだ。

 インテリアについては詳しくはなかったけれど、本当はずっと前から思っていた。伝統あるメーカーの、職人さんが手作りしているような丁寧なものに囲まれて生きたいと。

 そう思っているくせに、なかなか行動に移せなかった。彼がいる間、自分が自分ではなかった。

 そして、黒い立派なソファは、うちにやってきた。

 その日から、たぶん、わたしはやっとスタートラインに向かい始めたのだと思う。


 チャイムが鳴った時も、ソファでくったり眠りこけていた。

 日差しが少し強くなっていて、カーテンのレース柄が床にこぼれている。ティーテーブルには底に僅かに残ったお茶の琥珀色が輝いていて、深緑の玉サボテンが、外光を浴びていた。

 時計を見ると、もうすぐ午前が終わろうとしている。どうやら昨夜、仕事を終わらせて一休みして、そのままずっと眠り込んでいたらしい。

 また、チャイムが鳴る。

 インターホンで確認したら、ユウが、きゃんきゃんした声でまくしたててきた。お姉ちゃん大丈夫なの心配させないでよ、もう。

 ユウときたら、二人目の子供を幼稚園に行かせるようになってから時間をもてあまして、しょっちゅううちに来る。そして、いろいろなことを喋って、お茶をがぶがぶ飲んで、そろそろ幼稚園から戻るから、と言いおいて帰ってゆく。

 うるさくて煩わしいのだけど、彼がいなくなって以来、ユウの存在が一日のアクセントになっているのは確かだった。

 

 イラストの仕事をしていたら、あまり人と会うことがない。

 今はインターネットの時代なので、直接顔を突き合わせてやりとりすることが少ないのだ。

 例外はあるけれど。

 マンションから車で十分くらいのところに出版社があって、そこの編集さんなら、よく顔を出してくれる。

 (あっ、河原田さん・・・・・・)

 玄関に向かいながら、一瞬、あの色黒で表情が読めない人のことが浮かんだ。河原田さんは、その出版社のベテランの編集さんで、よくデザインの仕事をくれる。かなり長いつきあいになるけれど、そのくせ、個人的なことは何も語らない。仕事はできるけれど無口で一匹狼のような人だと聞いたことがある。

 (なんで河原田さんのことが浮かんだのかな)

 ほてほてと歩いて玄関の戸を開いたら、お洒落な普段着を纏った妹がなだれ込んできた。今は夏山姓になっているけれど、ユウはわたしの妹だ。ファッションがずいぶん違うので他人のように見られてしまうけれど、顔立ちは似ている。

 「もうお姉ちゃん」

 ユウはぷりぷりしながら上がり込んだ。

 「まーた、寝てたでしょ」

 エコバッグを肘にかけて、ずかずかリビングに突入した。

 そこにあった毛布をくるくる丸めて隅に押しやって、さっきまでわたしが眠っていたソファにお尻を下ろすと「いいわねえ」と言った。いつもながら、ぶしつけな妹だった。

 「お茶いれてくれるぅ。スーパーで甘い物買って来たしぃ」

 ユウは、勝手にリモコンをいじってテレビをつけた。ちゃかちゃかチャンネルを変えて、どうも詰まらなさそうだと思ったらしく、棚からDVDを選んでデッキに入れた。古い映画がけだるく流れ出した。

 紅茶を淹れた。

 柔らかい香りが部屋に流れ出す。ティーテーブルにトレイを置いてから、そっと窓を開いた。換気が必要だった。

 「まだ、戻ってこないの」

 と、ユウは言う。お菓子を食べながら。

 「もう一か月たつよね。ほんとに別れちゃったの」

 紅茶を飲みながら、ユウは言う。おしゃべりは止まらない。わたしは戸棚を開いた。他に茶菓子がなかったか、探している。

 冷たい空気が入ってきた。

 部屋に新しいものが流れ込んでくる。古いもの、淀んだものがゆっくりと出てゆく。入れ替わってゆく。

 「戻らないわよ。別れたもの。そう言ったでしょ」

 わたしは言った。

 ユウはすごい表情で振り向くと「だーかーら、ほんと、いい加減身を固めようよ。ねー、自分のトシのことも考えて」と、言った。

 

 「化粧もして、もっと外に出て。ほらー、わたしが買ってあげた香水とかアクセサリーとか、ぜんぜん使ってないしぃ」

 時々、どうしてユウはここに来るのかと思う。

 もっと若かったら、喧嘩をしてしまったかもしれない。けれどわたしはもう44歳だし、どんなに面白くない事実でも、事実である限り「そうですか」と受け止める術を身に着けている。のれんに腕押しの技は無敵なのだ。妹がどんなにきゃんきゃん騒いでも、流しておけばよい。そのうち、幼稚園が終わる時間になって、また慌ただしく帰ってゆくだけだ。

 お昼を食べて、ユウは帰ってゆく。

 子供が二人もいると、友達と遊びに行くこともなかなかできないのよ、孤独なのよと、ユウは言う。

 ユウが帰り、再び部屋はわたしのものになる。

 馬場家具のソファは、どっしりと構えてそこにいる。誰が来ようと、何を言おうと、全く関係なく、いつまでも変わらずにそこにいてくれる。

 わたしもまた、ユウが押しかけてくる前の自分自身のままで、ソファにうずもれる。この触り心地。体を横にしてほおずりしたくなる。側で、玉サボテンがじっと黙り込んでいる。

 沈黙が、好きだった。

 出ていった恋人は、この沈黙が嫌なのだと言っていた。

 もし彼が未だここにいたならば、わたしはこのソファを手に入れることができなかったのに違いなかった。

 

 食べるものも、服の選び方も。

 あの人がいた時は、この部屋にいる時間も少なかった。

 けれどもう、時間はわたしのものになったのだと思う。

 そう言えば、わたしの中から悲しさが消えかけている。べったり依存して、毎日ラインが来なかったらクヨクヨとして、言われること全て深刻になって、忠実でいようとして。あんな日々が楽しいはずがなかったし、どうしてわたしは、彼とずっと一緒にいようだなんて思っていたんだろう。

 「キミのおかげかも」

 ソファに横たわり、目を閉じながら呟く。

 そうだ。別れた恋人といた日々より、ソファで眠る今の方が、何千倍も心地よいことに、わたしは気づき始めていた。

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