新たなスタートライン 第2章: 自分で決めて進め

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カヴァース小説部

第2章: 自分で決めて進め

 河原に座って野菜ジュースを飲んだ。

 よく晴れていて風が爽やかで、草むらの向こうでは浅い川がきらきら光を放っていた。走る犬に引きずられ一緒に駆け足をしている人が通りかかる。河原に座ったまま振り向いたら、顔見知りだったので挨拶を交わした。

 おっ、こんにちは。こんにちは。

 あのおじさんは、この辺りを毎日犬の散歩で走っている。しかし随分見なかった。ジュースのストローをくわえながら、最後におじさんを見たのはいつだったのか思い出してみる。

 ああ。そうか。

 彼とまだ、一緒だった頃。もう、末期だった時期。

 滅多に部屋に寄りつかなくなった恋人を、それでも待ち続けて、部屋の中を毎日綺麗にし、いつでもご飯を用意できるようにしていた。自分には恋人がいるのだという「事実」にしがみつこうとしていた。

 あの日も、晴天だった。

 戻らない彼に待ち疲れて、一息つきたくなって、久し振りに河原を歩いた。そこはマンションから近い場所で、良い散歩道だ。彼と出会う前、一匹狼のようだったわたしは、朝であろうと夜であろうと好きな時に、大好きなこの道を歩いたものだった。

 

 「ソファを買おう」

 と、その時、この河原に座って空を見ながら、わたしは思ったのだ。

 黒革の素敵なソファを。それも、きちんとしたメーカーのソファだ。ぴんと胸を張り、行く手を見据え、自分の求める道をきちんと分かっている。そんな思いを形にしたようなソファと、毎日を共にしたいと思った。

 ソファを買うことを決意したタイミングで、犬の散歩のおじさんが通りかかり、何気なく挨拶を交わしたのだ。

 ソファはずっと前から欲しかった。

 ねえ、こんなソファが欲しいのよ、と、彼に話したことがあったけれど、ふうん、でも今は量販店で似たようなのいっぱい売ってるじゃん、と興味もなさそうに返された。その時、わたしは「そうね」と笑顔で答えてしまい、その瞬間、また一つ、自分の芯になる大事な部分が砕けたのだった。

 けれど、その日、晴天の空の下、大好きな河原に座りながら、わたしははっきり悟っていた。

 もう、恋人はいないのだと。心変わりした彼は、二度とわたしの元には戻らないのだと。

 それは涙が出ないくらいに孤独で辛いことであり、その辛さを乗り越えるためにも、自分の心を預けることができる頼もしいソファが必要だったのだ。

 今なら手を伸ばすことができる。

 ずっと望んでいた、素敵なソファを、今ならば。

 

 そして手に入れた馬場家具のソファは、想像以上にしっくりと寄り添ってくれている。ソファが届いた日から、恐ろしいほどの時間を、その美しい本革の上で過ごした。そこにはくつろぎがあり、充実があった。眠って目覚める度に、自分自身を取り戻している気がした。

 野菜ジュースは空になった。

 紙パックを丁寧に潰して手の中に握ると、よいしょと立ち上がる。せっかく久々に外に出たのだから、このまま歩いてご飯でも食べに行こうかと思った。

 

 何を食べよう?


 「自分で、決めてください」

 はっとするような声で、河原田さんは言った。

 それはあの日、牛丼をおごってもらったフランチャイズ店のカウンターでの言葉だった。

 キムチ牛丼になにかトッピングしようかな、お腹がすごくすいているから特盛にしちゃおうかな、ああでも、河原田さん並盛ですよね?

 

 食べたくてたまらなかった牛丼。お店の中はその香りで満たされていて、ときめくようなメニューが並んでいる。これが食べたかった。こういう場所で、がつがつ美味しいものを食べて、養分をとって、またがっつり仕事に向かいたかった。

 特盛を食べたい気持ちはあったけれど、人のおごりで、しかも自分は女で相手は男性で。もし河原田さんが並盛を頼むのならば、わたしは特盛を控えるべきか。

 くよくよと言うわたしに対し、河原田さんはずばりと言ったのだ。氷が鳴るお冷を飲みながら。

 自分で、決めてください。

 突き放すような言い方は、河原田さん特有のものだ。怒っているわけでも嫌っているわけでもない。

 びくりとして河原田さんを見たら、ものすごく真剣な顔をしてメニューを睨みつけていた。それで、彼自身もどうしようか激しく迷っているのだと分かった。

 わたしもメニューを広げて、しばらく悩んでみた。

 牛丼店のカウンターで、二人並んで、これから食べる牛丼について真剣に悩んだ。濃厚な無言の時間が流れた。

 結局、河原田さんはカルビ丼の特盛を頼み、わたしはキムチ牛丼の並盛にデザートを追加した。

 別々のメニューがほぼ同時にやってきて、二人して無言で牛丼を食べた。

 食べ終わった後の僅かな時間、河原田さんはお冷を飲んでくつろいだ。何気なさそうに河原田さんは「そう言えば、小早川さんのうちのソファは馬場家具のものでしたっけ。あそこは90年続いている老舗のメーカーなんですよ」と教えてくれた。

 「へえー」

 わたしは相槌を打った。

 お気に入りのソファのことを、気になる河原田さんが語っているのは、なにか奇跡的な感じがした。

 

 「馬場家具はちょっと特別なソファメーカーで。独自で道を切り開いてきた、一匹狼のようなところなんですよ」

 ことんとお冷のコップを置き、河原田さんは口をふいた。

 「だから僕は、あのメーカーが好きで。僕のうちにも馬場家具のソファがあるんで、小早川さんのうちのソファも馬場家具だってわかった。いいソファでしょう。僕は」

 河原田さんの鋭い目の奥が、柔らかく微笑んでいるように思われた。

 「僕は、あのソファが好きです」


 わたしは、どうしたら良いのだろう。

 結婚しようと決めていた相手に、不意に別れを告げられて、たった一人残された。そうなってからようやく気付いた。

 

 わたしは、わたしの道を歩こうとしていなかった。

 

 イラストレーターの仕事をしながら主婦として生活をする。彼との子供は、もし作るならば早い方が良い。なにしろもう、四十を超えているのだから。

 (でも、彼は子供が欲しくないって言っていて)

 小さな子供を保育所に送る。やがて朝に作るお弁当は、彼の分と、子供の分の二つになる。大きいのと小さいの。内容は同じ。

 (弁当なんかいらないよ、俺は。昼はあんまり食わない主義だし)

 

 彼がそう言っていて。

 彼がそう考えるから。

 

 馬場家具のソファが欲しいことだって、きちんと言えないまま別れを迎えてしまった。

 わたしは、これが良いの。こういうソファがずっと欲しかったの。あなたはそうじゃないかもしれないけれど、わたしは。

 「わたしは、あのソファが良いの」

 風の中に呟きが消えた。思わず飛び出した独り言に、自分で自分に驚いた。

 河原の散歩道は無人のようで、どうやら誰にも聞かれていなかったと安堵したその時だった。

 「僕も、あのソファが好きです」

 低い、どすんとお腹に響くような声が背後から迫った。まさかと振り向いたら、何故かハアハアと息を切らした河原田さんが立っていた。眉をしかめて中腰になり、スーツのポケットを探ってハンカチを探しているようだ。いつもの黒い書類カバンを小脇に挟んで持って、河原田さんは、彼らしからぬ様子で息を弾ませていた。

 へっと、わたしは間抜けな声を出した。

 河原田さんに独り言を聞かれたことと、河原田さんもあのソファが好きである宣言と、なぜか息を切らして追いかけてきたらしい様子。その全てに驚きながら、わたしは体の向きを変えた。

 ふわりと風が流れてフレアスカートが揺れた。

 

 「例の挿絵の仕事でお伝えしたいことがあってマンションに行ったんですが、お留守で。携帯で連絡をしたんですが、留守電になっているし。仕方ないから出直そうと思ったところで、小早川さんらしい後姿を見かけたものだから」

 車で国道を走っている時に、河原を眺めたらしい。そこに、わたしの姿が見えたので、慌てて脇道に車を乗り入れて、途中で降りて走ってきたという。

 はい、これ。

 河原田さんはカバンから挿絵のおおまかな指定のラフを取り出して、わたしにくれた。

 なんで今渡すかな、と思わず心の中でツッコミを入れながら受け取ると、鉛筆でものすごい荒さで書きなぐったような、童話の一場面が紙の中に見えた。

 「クライアントが自分でラフを起こすというのです。デザイナーの感性で描いてもらってよいけれど、頭に思い描いているイメージを元にしてもらいたいと言って」

 まだ息を切らしながら、河原田さんは言う。やっと探り当てたハンカチで顔を拭き、ふうと空を見上げて息をついた。

 少年と少女が手を繋いで、広い空を見上げている。今から冒険が始まろうとしている、物語の最初のシーン。

 ああ。

 わたしは小さく呟いた。

 ああ、良かった。わたしもこういう構図を思い浮かべていたんだ。あの原稿を読んで。

 「仕事の早い小早川さんのことだから、もう取り掛かっておられるかなと思って。だから急いだんです」

 河原田さんは言った。

 

 軽い沈黙が落ち、何となく二人で揃って、青く広い空を眺めた。

 

 「大丈夫ですよ。これから下書きをするところだったんです」

 わたしは答えた。不意におかしくなって、ちょっと笑った。「そのために走ってこられたんですか」

 河原田さんは、空を見上げていた。

 太陽の日差しに邪魔をされて、彼の表情がよく分からなかった。のどぼとけの強いラインが目に焼き付き、意外に彼の肩幅が広いことを知って、どきりとした。

 

 「いえ、本当は、実は」

 低く、不愛想な、いつもの彼の声で。


 車を運転しているうちに、猛烈な空腹を感じまして。

 それで、小早川さんのお宅に伺ってから食事にしようかと思っていたんですが。

 「良かったら、ご一緒しようかと」

 彼は、その鋭い目で、こちらを射抜きながら、一言一言、はっきりと言った。

 

 「今は、牛丼は食べたくないんです」

 

 飛び跳ねたいくらい嬉しいくせに、どういうわけか、わたしはそんなふうに言った。それは、彼に対しては、どうあっても嘘をつきたくない、自分らしい自分でいたいという、こだわりの表れだったのかもしれない。

 「すごくこってりとした、ラーメンが、食べたいです」

 

 わたしがそう言うと、河原田さんは何故か狼狽えたようだった。だけどすぐにいつもの様子に戻り、「では行きましょう。車はあっちにあるので」と、淡々と来た道を引き返し始めた。

 その広い背中の後ろにくっついて歩きながら、「河原田さんと歩いているのに、まるで自分で決めて自分だけの道を歩いているような気がする」などと、ぼんやり思った。


 90年の伝統を誇る馬場家具のソファ。

 世界には色々な価格やタイプのソファが溢れているけれど、吸い寄せられるように馬場家具のソファを選んだ。

 それは、このソファが凛として、一匹狼のように、自分の行く手を見据えているような気がしたからかもしれない。

 (いつから、あのソファと河原田さんを重ねるようになったのだろう)

 本革の上質な手触り。だけどカジュアルさも持ち合わせている。完全なるオリジナル。誰のことも気にしていない。自分の道だけを見つめている。

 いや。もしかしたら、わたしは。

 河原田さんに似ていると思ったから。河原田さんのようだと思ったから。

 だから、余計にあのソファを気に入ったのかもしれなかった。

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