新たなスタートライン 第1章: 牛丼デート

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カヴァース小説部

第1章 牛丼デート

 恋人 - 今となっては、もと恋人だ - とは、人からの紹介で引き合わされた。

 もう良いトシなのだし、そろそろどう、というわけだ。正直、好きかどうかわからないまま付き合いが始まり、ずるずると年月が経った。時間がたつごとに彼はわたしを侵食し、いつの間にかわたしは、彼の顔色を気にし、彼の好みを優先するようになっていった。

 「それが好きってことなのよ」

 人に相談すると、そんな回答が返ってきた。

 好きだから、相手の心を繋いでおきたい。だから、ひとつひとつ、相手の反応が気になるのだと。

 それはある意味、腑に落ちる説明だったので、「そうか、好きなんだ」と、わたしは思うことにした。

 (実際は、どうだったんだろう)

 実際は。


 おなかが空いたね。うん、空いた。何食べる。うーん。

 どかんとした、腹に溜まるものが食べたい。がつがつと頬張れるような。丼物が食べたい。

 その言葉を言いたくてたまらなくて、わたしは泣きそうになっていた。さあ言おう。今言おう。わたしは丼が食べたいのだと。けれどどうしても口から言葉は出ず、かわりに気弱な笑顔が貼りついた。

 

 じゃあ、いつものイタリアンに行こうか。

 彼は言い、わたしは「わあ、早く行こう。おなかすいたよ」と言う。

 喉から手が出るほど食べたかったのに、しかも、この会話をしている最中、フランチャイズの丼店が視界を横切っていたのに、わたしは何故か、食べたくもないお洒落なものに向かい、歩いて行く。

 笑顔で。

 そしてわたしは、牛丼が食べたくて、涙ぐみながら目覚めたのだった。

 お気に入りの、極上のソファの上で。

 (おなかすいた・・・・・・)

 まるで、沈んでいた海底からゆるやかに浮上してゆくように夢から覚める。べそをかいている割に、すっきりした寝ざめだった。

 このソファが来てから、眠る時間が増えた。ほっと一息するたびに、ずぶずぶと心地よい眠りに引きずり込まれてゆく。そして、決まって、過去の夢を見る。それは全然面白くない夢ばかりなのに、なぜか、夢から覚めたら妙にすっきりしているのだった。

 (なんだか、今までのことをなぞり、学びなおしているかのように)

 「どれくらい、食べてなかったっけ」

 ぽつんと呟きながら、馬場家具のソファを撫でた。素敵な手触りだ。このソファは、職人さんが丹念に作ってくれたもの。そして、わたしにとってはこの上なく素晴らしい居場所なのだった。

 

 ずっと欲しかった、こんなソファ。

 重厚でカジュアルで長く使うことができるもので。

 手に入れることをしなかったのは、恋人の顔色を窺っていたからに他ならない。

 (あの人は、こういうソファじゃなくて、もっと違うものを好んでいたから・・・・・・)

 

 丼が食べたいのに、イタリアンレストランに行くような生き方をしていたからだ。

 本当は、もっと早くに、このソファに出会えていたのかもしれない。

 

 時計は午前の十時を指している。

 昨夜は食欲がなくてお茶を飲んだだけだったし、仕事でほぼ徹夜して、朝食をすっぽかして今まで眠っていた。お腹が空いていて当然なのだった。

 なにかうちにあるかな、と思い棚を探したら、パスタとミートソースがあった。 何と、夢に出てきたイタリアンと同じではないか。まあ何でもいいか、と思った時、玄関のチャイムが鳴った。

 

 「河原田です」

 インターホンから、あの不愛想でとっつきにくい声が流れた。

 ああそうだった、河原田さんと仕事の話をすることになっていたのだった。先週くらいにアポが入っていたのを、今になってわたしは思い出した。確か、自費出版で童話の本を作ろうとしている人のために、挿絵を描いてもらえないかという打診があったように覚えている。

 

 河原田さんが来られた。

 ちょっと焦りながら洗面所に駆け込み、寝起きのみっともない顔を急いで直した。髪の毛を軽くとかしてから玄関に向かう。

 扉の外では、黒くて渋い書類かばんを持った河原田さんが、あの、とても印象的で、ちょっと怖いような鋭い目で、真正面からこちらを向いて立っていた。

 「お待たせしました」

 もろに眼光を浴びてしまい、心臓が止まりそうに感じた。河原田さんに入ってもらいながら、一体自分は何でこんなに緊張するのだろうと思った。

 いつもだった。

 河原田さんのことが苦手なのだろうか。いや、決してそうではないのだけど。苦手というか、むしろ・・・・・・。

 「お疲れのところすいません。うちの正岡の仕事で、かなりお時間をとらせたようで」

 河原田さんは、ソファに腰かけた。

 一瞬、わたしは見とれた。ああ、やっぱり似合う。河原田さんは、このソファにとてもよく似合う - しかしすぐに我にかえる。

 「いえ、そんな。こちらの思い違いもありましたし」

 そう答えた。実際のところ、昨夜の修羅場のような徹夜仕事は、河原田さんと同じ会社の編集の正岡さんの段取りが悪かったせいなのだ。まあ、無事入稿できたから別に良いのだけど。

 河原田さんにソファに座ってもらい、わたしは丸椅子に腰かけて、仕事の話をした。

 いつも河原田さんが持ってくる仕事は心地が良かった。わたしの本質を見抜き、もっとも適切な仕事を選んでくれているような気がしてならなかった。なにより、河原田さんの仕事は、不思議なほど問題なく、理解しやすくて、どんどんイマジネーションも沸いてきて、心から楽しく取り組めるのだった。

 今度の仕事も、間違いなく良さそうだった。わたしのイラストを気に入ってもらえるだろう予感があった。

 じゃあ、まずは原稿のコピーをお渡ししますから。

 河原田さんがダブルクリップで留めた紙の束を出した時だった。

 凄い音でお腹が鳴り響き、穏やかな部屋の空気が一瞬にして引き裂かれてしまった。ぐうぐう叫び続ける腹の虫のために、わたしは本気で泣きそうになった。ソファの側ですまし返っている、大きな玉サボテンに顔を打ち付けたい気分になった。

 「ああー」

 しかし、河原田さんはにこりともせずに、淡々と言ったのだった。

 「一晩中仕事しておられたんですよね」

 

 ちらっと、河原田さんは腕時計を見た。それから、あの鋭い目でわたしを射た。

 「食事に行きますか。わたしも腹が空いているので」

 

 おごりますよ。うちの正岡が迷惑をおかけしたお詫びです。

 すっと、河原田さんは立ち上がった。そして、へたりこんでいるわたしを振り向き、なぜついてこないんだと言いたげに片方の眉を吊り上げた。

 

 「ああー」

 河原田さんは納得したように頷いた。「そうか、そうですよね。食べたいものが同じかどうか分からないですしね」

 妙にずれた言葉だった。そのずれた言葉のおかげで、わたしは脱力した。

 「僕は今、無性に牛丼が食べたいんですよ。小早川さんは何がいいんです。テイクアウトしてきますよ」

 ハアー。

 変な声が喉の奥から出た。

 河原田さんは「えっ」と聞き返してきた。

 ほんの数秒の沈黙だったはずだが、ずいぶん長い間、考えたような気がした。わたしは決意して立ちあがった。既に立ち上がっている河原田さんを正面から見上げる形になった。

 「行きましょう」

 わたしは言った。心は決まっていた。

 「ご馳走になります。牛丼食べたいです」

 河原田さんの目の光が和らいだような気がした。

 

 黒いソファが、窓から差し込む日差しの中で、淡く輝いている。

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