ここから始める、これから始まる 序章: 価値を纏う

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カヴァース小説部

序章: 価値を纏う

 例えば、わたしたちは皆、お化粧をする。

 出勤前に必ずする人もいれば、普段はノーメイクでも、特別な時に化粧をするという人もいる。

 化粧は、女の武装のようなものだと誰かが言っていた。男の人ならば、スーツにネクタイを締め、家を出る。女はネクタイをしない代わりに、化粧をするのだと。

 

 これから、うちの外に出て、戦うわたし。

 化粧が武器になるわけでは、もちろん、ない。でも、化粧をすることで、心が強くなる気がする。

 初めてルージュを塗った日、多分わたしは、自分に新たな価値がつけられたような気がしたはずだ。

 オトナという価値。もう、子供ではないという思い。ルージュをつけてうちから出た瞬間、背筋がすっと伸び、世界が少し、違って見えただろう。

 もう、記憶の底に沈んでしまった、遠い日のことだけど。

 大人になった今は、同じルージュでも、使い分けるようになった。

 色とか、ブランドとか。

 やっぱり、良いものを使いたい瞬間はある。ルージュ位、安かろうが高かろうが塗った見た目は変わらない。そういわれるかもしれないけれど。

 

 自分に箔をつける。

 価値を纏う。

 価値は自然につくものではない。素晴らしい人ならば、価値のほうから寄ってくるなんて、それはおとぎ話の世界だ。

 

 そこに拘ることができるかどうかで、人生が変わる気がする。

 お化粧のことだけじゃなく、例えば部屋にどんな家具を置くとか。

 

 今日もわたしは、カヴァースのサイトを眺める。確かな品質。歴史ある老舗。

 自分に。

 生き方に、「価値をつける」家具たちを、ひとつひとつ見る。

 「決めるかなあ」

 そう、呟く。

 あきの穏やかなまなざしを思い出しながら。


 空は淡い雲を乗せ、優しい青空が覗いていた。春はいつの間にか勢いを増しており、濡れた地面も温もりを帯び始める。

 

 この季節に、独立しようと決めていた。

 十年以上お世話になった編集プロダクションを退職し、デザイナー兼ライターの事務所を立ち上げる。わたしとあきの共通の夢だった。

 

 「自分で責任を持って、自分の仕事を完結させるの」

 まだ二十代だったわたしたちは、生意気にも会社の方針について、文句を言い合ったものだ。

 「押し付けられるのじゃなくて、自分で取った仕事を自分で進めるの」

 会社の屋上で、お弁当を食べながら言い合った。曇った日も、晴れた日も、そりゃあ雨天や寒い日は素直に中で食べたけれど、だいたいの日の昼休憩、わたしたち二人は屋上に陣取っていた。

 

 わたしもあきも、仕事は好きだ。子供のころから、こういう仕事がしたいと思ってきたのだ。納得いかないことや辛いことも多かったけれど、やりたい仕事だから続けることができた。いつからか、わたしたちは「二人でやれば怖いことはない」と思うようになり、「一緒に独立できたらいいね」と漠然と言うようになった。それが具体性を帯びてきたのはつい最近だ。

 三十路に入ったからかな。やっぱり、三十歳過ぎると意識が変わってくるようで。

 ただでさえ忙しい会社が、二人同時に社員を失うのは痛手だったと思う。だけどみんなは快く送ってくれて、おまけに「仕事また一緒にしよう。また連絡するから」というありがたいお言葉まで頂き、無事退職と相成ったのだった。

 事務所となるテナントは半年前から決めていて、機材の運び込みは徐々に始めていた。

 事務所を開設して間もなく、仕事ができる環境は整った。会社時代に顔つなぎしていたクライアントから、少しずつ仕事を貰い始めている。まだ、軌道に乗ったとは言えないけれど、まずまずの出だしで、わたしたちは嬉しかった。

 「やー、今夜中に納品できそうかね」

 「そだねー」

 並んでMacに向き合い作業しながら、時折コーヒータイムをする。喋る相手がいるというのは有難いものだ。一人より二人。やっぱり、あきと開業して正解だった。

 仕事柄、どうしても不規則になる。幸い二人とも独身だし、まだまだ時間は自由になる。今、仕事を軌道に乗せたい。そうすることで今後の人生設計ができてゆくだろう。同じ年齢の女同士というのも、色々と都合が良かった。お互いの状況が分かるので、無理せず、また、相手に無理させないようにーーまあ、どうしても仕方がないことはあるけれどーー仕事を回すことができていると思う。

 なによりわたしとあきは、気が合うのだった。

 

 時刻は零時過ぎ。

 いくら春になったからとは言え、しんしんと寒さが足元からのぼる。光熱費を控えめにしたかったので、あえてエアコンは付けていない。

 あきもわたしも、アンカを使いながら仕事をしているのだった。

 大丈夫。二人なら頑張れる。

 しかし、それにしても、なあ。

 肩こりほぐしついでに、ぐるっと椅子を回転させ、オフィスの中を見回した。

 白い壁。高い天井。グリーンのカーテンがかかった二つの窓。使い古しの掛け時計。

 給湯室にはポットが置いてある。ガスコンロで毎朝お湯を沸かして入れるのだ。

 疲れた時用に、寝袋が二つ、押し入れに突っ込んであった。

 

 「このあいだ、A社の人がデータ取りに来られて待ってもらってた時さ、微妙に恥ずかしかったの、わたしだけ」

 

 あきはMacから目を離した。ぐるっと椅子を回転させて、じっと部屋を見た。そして、「殺風景だわ」と呟いた。

 「仕方ないよ、まだ始めたばかりの事務所だしぃ」

 「でも女子力のカケラもない」

 「女子力って。ドレッサーでも置くんかーい」

 「いや、姿見くらいはいいとは思うけどさ、ほら、ソファとか、テレビ台とかさ。あと、わたしたち用に、仮眠も取れるようなソファベッドみたいなのとかさぁ」

 あー。

 あきは唸った。わたしも唸った。

 深夜だから余計に、部屋の殺風景さはすさまじく映る。納期が近い仕事の地獄感が部屋のせいでグレードアップしている気がする。

 ここで待っていただくお客さんは、どんな気分だろう。

 (忙しすぎて、そこまで思い至らなかったぁ)

 二人して唸った。おもむろにあきが、家具買おうか、と言い出した。そうだねそうしよう、と、わたしが賛同した。

 二人で顔を見合わせて頷きあった。

 

 夢はスタートラインに立ったばかりだ。必要なものは、まだまだたくさんある。

 

 勇者が武器や防具を揃えるように。

 魔法使いが衣装や杖を必要とするように。

 事務所はわたしたちの仕事場であり、夢の基地である。そこを、もっと居心地よく、もっと良いように整えるのは、どうしても必要なことなのだった。

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