ゆたかな選択 序章: 旧友からの贈り物

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カヴァース小説部

【連載】ゆたかな選択 - 人生を共に過ごす家具、カヴァース -

序章: 旧友からの贈り物

 小池ゆかから退職願を受け取ったその日、一杯飲みたい気分を堪えて帰宅すると、妻のかのこが奇妙な顔つきをして迎えてくれた。

 妊娠5か月目、そろそろお腹が目立っている。まだマタニティウェアに袖を通してはいないが、ボトムのサイズが今までのものでは辛そうだ。

 ただいま、と言ったが、おかえりという言葉は返ってこなかった。かわりにかのこは「桂さんって誰」と言ってきた。

 桂。

 すぐにはピンと来なかった。

 一体何のことかと思ったら、かのこはリビングに運び込まれた大きな荷物を指さした。でっかい段ボールだ。よく使うAmazonや楽天のものではない。それにしたって、俺は最近、ショッピングなどはしていない。ましてや、こんなでかいモノは。

 

「知らない人なの」

 と、妻はおっかなびっくりした様子で言った。

 「知らない人からなのに、なんで受け取ったんだよ」

 と、俺は呆れながら、段ボールに貼り付けられた送り状を確かめた。なるほど、あて名はうちになっている。俺宛てだ。カヴァースというロゴがある。そして、差出人は。

 桂総司。

 その字面をしばらく見ているうちに、もやもやと面影が浮かんできた。

 高校のクラス。一人、無言でものを読んでいる男。前髪が長くて表情が見えず、クラスメイトからも変わり者扱いされていたように覚えている。

 桂。そういう名前だった、あいつは。

 「いや、知ってる奴」

 俺は送り状を見ながら言った。妻が「そうなんだー」と、ちょっと安心したように言った。

 桂とは、高校卒業以来、何回かしか連絡を取り合ったことがない。あいつは同窓会には顔を出したりしないし、誰も奴の近況など知らない。県内でも有数の進学校であるうちの高校で、大学受験をしなかったのは、同級生のうちで桂くらいだ。今、桂君どうしてるの、と、ちらっと話題に出たりもするが、それはいつでも、ちょっとしたネタを求めてのことだ。どうせ桂のことだから、とか、言わんこっちゃないのに、とか、そういう結論に持っていきたいがための、探りなのだ。最も残念なことに、誰も肝心なことを知らないので、そのうち皆、桂のことを知りたがるのを諦めた。

 そうだ、俺ですらーー桂が同級生の中で、唯一、多少なり心を許してくれていた俺ですらーーよく、知らなかった。桂が今、どんなふうに生きているのかを。

 「最後にメールしたのは、5年前だったかな」

 と、俺は言った。

 えっ、そうなの、それってわたしたちが結婚した年じゃない。かのこは呆れたようだった。そして、そんな桂が今になって、一体何を送ってきたのだか、知りたそうにした。

 段ボールの封を切る前に、まず、それが何なのか知りたかった。

 品名には「ラウンドチェア」とある。

 ラウンドチェアって、あれか。あの、ゆったり座る感じの、くつろげるような椅子のことか。

 ラウンドチェアだってさ、と俺が言ったら、かのこがいきなり喜びだして「欲しかったのよ」と手を合わせた。なんだ、欲しかったのか。それなら、買ってやったのに。

 「言えなかったのよ。だって、もし欲しいって言ったら、量販店の椅子を見繕っちゃうでしょう。それじゃ嫌だったのよ」

 かのこは言った。

 「わたしねえ、おおきなお腹でゆったり座りながら、そこで編み物したり、育児の本を読めたりするような、そんな椅子が欲しかった。子供が生まれて動くようになったら、きっとその椅子は遊びの舞台になるでしょう。わたしも、子供が遊ぶのを、椅子に座って見守ることができる」

 そんな大事な椅子は、やっぱり、とても良いものを選びたかった。

 でも、経済的なことを考えちゃうから、なかなか口に出せなかったの。

 かのこがあんまり嬉しそうに言うので、俺はちょっとモヤモヤとした。悪かったな、安月給で、と、思わず、ささくれた気分になったのは、やはり、今日の一件のせいかもしれない。

 小池ゆかからの、退職願ーーわたし、やはり夢を諦められないみたいですーー一瞬、俺の表情がきつくなったのかもしれない、かのこの顔が不安そうになった。俺は無理に笑った。

 「ね、開いてみてよ。そして、桂さんのこと、話して」

 かのこは言った。

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