ゆたかな選択 第2章: 豊かになる選択

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カヴァース小説部

【連載】ゆたかな選択 - 人生を共に過ごす家具、カヴァース -

第2章: 豊かになる選択

 「行ってらっしゃい」

 かのこは今日も、カヴァースから送られてきた、あのラウンドチェアに座っている。

 良い天気の日はなおさら、その場所が居心地よいらしい。

 縁側から庭を眺め、時折居眠りをする。そうやって、幸せな妊娠の時間を堪能できている。

 俺にはかのこの幸せそうな姿が、その椅子のおかげであるような気がしてたまらない。

 極上の時間を作り出すことのできる椅子。

 そんなことができる椅子は、やはり、特別な技量を持つ、優れた職人の手で作られたものだ。

 良い椅子には、良い時間がある。

 それを使う人間は、豊かになる。


 小池さん、辞めちゃうって。

 うそー、なんで。

 

 早くも噂が回っている。

 こういう噂の流れ方が凄まじいのはなぜだろう。

 退職願。「願い出ている」書類なのだが、事実上の決定だ。突きつけられた側に、異論を述べることはできない。日本の法律はそうなっている。

 小池ゆかは、俺と目を合わせると、会釈をし「おはようございます」とはっきり言った。

 来月末に退職するという。

 夢を諦められないから、という理由だが、小池ゆかの「夢」は、絵本作家だ。子供のころからなりたかったけれど、高校、大学というレールの中を一生懸命走っているうちに、今の自分になっていた。気づいたら、夢から大きく離れてしまっていた、と、小池ゆかは語った。その目は、きらきらとしていた。

 「デザインの専門学校に入って、勉強するんです」

 小池ゆかは、どこか楽しそうだった。

 「そこから出直しです。すごく大変なのは分かっているけれど、やっぱり、自分の心を満足させたくて」

 夢、かよ。

 俺は、その一文字を語る奴を見ると、心の底がじれったくなって、いたたまれなくなる。

 夢に突き進むのは大変だし、世間体もあるし、金も時間もかかる。いいじゃないか、安全パイの人生を歩みながら、楽しみとして好きなことをすれば。

 だけど、それじゃあ違うのだと小池ゆかや、桂のような連中は言うのだ。

 違う。それじゃあ、自分たちは豊かになれない。

 「行ってまいります」

 小池ゆかは、ひととおりの準備をすると頭をさげて、フロアを後にした。

 営業先を回るのだろう。

 一か月後、退職するまで小池ゆかは一生懸命、働く。そして、少しでも新規を開拓し、後輩につなげてゆこうとするだろう。

 

 一本気だからこそ、夢を追うなんて、時間も手間もかかることをしようなんて、思うんじゃないのか。


 取引先との話が長引いた。

 だいぶ遅れて昼休憩に入る。休憩室には誰もいなかった。みんなが食べたカップ麺の残り香がしつこく漂っており、俺は思わず窓を開いた。

 

 休憩室にはベンチと椅子がある。

 それなりに見た目の良い椅子だ。三年前、ホームセンターで買ったものだ。限られた予算で購入しなくてはならない中で、安くて見栄えの良いものが見つかり、会社はずいぶん助かったはずだ。

 今、その椅子たちは座ると音をたて、がたがたと揺れた。

 そうか、三年も頑張ってきたんだもんなあ、と、椅子どもをいたわりたくなると同時に、安いからなあ、という思いもある。

 これはこれで、いい。

 安く手に入る。がたつきも、気にならない。そこに座り昼休憩を楽しむのに、何の不便があろう。

 俺はこの椅子が嫌いじゃない。

 休憩室の椅子に座って弁当を食べながら、ふいに俺は気づいた。

 自分の人生を、この安い椅子に見立てていないか。

 レールに沿って生きてきた自分自身は、まるで量販店の椅子みたいだ、なんて思っている。

 (ああ、まあ、否定はしない)

 がたつきが出てきても、この椅子はまだまだ使われる。

 もう十年くらい、ずっとここで使われる。

 壊れるまで使うかもしれない。だとしたら、もっともっと長い間、使われるかもしれない。

 そう思うと、このがたついた椅子が愛おしくもなる。

 その一方で、俺はあの、カヴァースから送られてきたラウンドチェアに強烈な憧れを覚えるのだ。

 伝統あるメーカーの、優れた職人が、独自の手法で作り上げた品。

 美しいフォルム。使い心地の良さ。

 あれには、あの品物にしかないものがある。

 

 桂は、あのラウンドチェアみたいな奴だ。

 そして、小池ゆかもきっと、そうなるのだろう。

 気がついたら俺は、指でピックをつまみ、弦を軽く弾くような手つきを繰り返していた。

 もう片方の指は、コードの形を作っていた。

 あんなに練習していたから、忘れようがない。体が覚え込んでしまっているのだ。

 シックス。

 セブンスフラッド。

 セブンスシャープ。

 ああそうだ。

 誰だって夢がある。

 その夢を、いつから手放してしまうのだろう。

 夢を手放して生きることが大人になることだ、それがレールに乗ることだ、レールに乗りさえすれば人生がうまくいく。

 

 だけど、レールに乗らない奴も当然いる。

 どっちを選ぶかは自分たちの自由だ。

 俺はただ、レールから外れた奴を妬むだけの人間にはなりたくない。


 家に帰ると、食事は既にできていた。

 俺を待ってくれていた食卓を見ると、やはり幸せを感じる。

 「かのこ」

 と、呼んだが返事がないので家の中を探したら、思った通り、縁側のラウンドチェアで、うとうとと眠っていた。

 満ち足りた寝顔だった。

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