ゆたかな選択 第2章: 豊かになる選択
【連載】ゆたかな選択 - 人生を共に過ごす家具、カヴァース -
- 【第1回】 ゆたかな選択 序章: 旧友からの贈り物
- 【第2回】 ゆたかな選択 第1章: 簡単ではない道
- 【第3回】 ゆたかな選択 第2章: 豊かになる選択 ←今回はココ
- 【第4回】 ゆたかな選択 第3章: 良き人生に豊かさを添えて
- 【第5回】 ゆたかな選択 終章: 幸せの音色
第2章: 豊かになる選択
「行ってらっしゃい」
かのこは今日も、カヴァースから送られてきた、あのラウンドチェアに座っている。
良い天気の日はなおさら、その場所が居心地よいらしい。
縁側から庭を眺め、時折居眠りをする。そうやって、幸せな妊娠の時間を堪能できている。
俺にはかのこの幸せそうな姿が、その椅子のおかげであるような気がしてたまらない。
極上の時間を作り出すことのできる椅子。
そんなことができる椅子は、やはり、特別な技量を持つ、優れた職人の手で作られたものだ。
良い椅子には、良い時間がある。
それを使う人間は、豊かになる。
小池さん、辞めちゃうって。
うそー、なんで。
早くも噂が回っている。
こういう噂の流れ方が凄まじいのはなぜだろう。
退職願。「願い出ている」書類なのだが、事実上の決定だ。突きつけられた側に、異論を述べることはできない。日本の法律はそうなっている。
小池ゆかは、俺と目を合わせると、会釈をし「おはようございます」とはっきり言った。
来月末に退職するという。
夢を諦められないから、という理由だが、小池ゆかの「夢」は、絵本作家だ。子供のころからなりたかったけれど、高校、大学というレールの中を一生懸命走っているうちに、今の自分になっていた。気づいたら、夢から大きく離れてしまっていた、と、小池ゆかは語った。その目は、きらきらとしていた。
「デザインの専門学校に入って、勉強するんです」
小池ゆかは、どこか楽しそうだった。
「そこから出直しです。すごく大変なのは分かっているけれど、やっぱり、自分の心を満足させたくて」
夢、かよ。
俺は、その一文字を語る奴を見ると、心の底がじれったくなって、いたたまれなくなる。
夢に突き進むのは大変だし、世間体もあるし、金も時間もかかる。いいじゃないか、安全パイの人生を歩みながら、楽しみとして好きなことをすれば。
だけど、それじゃあ違うのだと小池ゆかや、桂のような連中は言うのだ。
違う。それじゃあ、自分たちは豊かになれない。
「行ってまいります」
小池ゆかは、ひととおりの準備をすると頭をさげて、フロアを後にした。
営業先を回るのだろう。
一か月後、退職するまで小池ゆかは一生懸命、働く。そして、少しでも新規を開拓し、後輩につなげてゆこうとするだろう。
一本気だからこそ、夢を追うなんて、時間も手間もかかることをしようなんて、思うんじゃないのか。
取引先との話が長引いた。
だいぶ遅れて昼休憩に入る。休憩室には誰もいなかった。みんなが食べたカップ麺の残り香がしつこく漂っており、俺は思わず窓を開いた。
休憩室にはベンチと椅子がある。
それなりに見た目の良い椅子だ。三年前、ホームセンターで買ったものだ。限られた予算で購入しなくてはならない中で、安くて見栄えの良いものが見つかり、会社はずいぶん助かったはずだ。
今、その椅子たちは座ると音をたて、がたがたと揺れた。
そうか、三年も頑張ってきたんだもんなあ、と、椅子どもをいたわりたくなると同時に、安いからなあ、という思いもある。
これはこれで、いい。
安く手に入る。がたつきも、気にならない。そこに座り昼休憩を楽しむのに、何の不便があろう。
俺はこの椅子が嫌いじゃない。
休憩室の椅子に座って弁当を食べながら、ふいに俺は気づいた。
自分の人生を、この安い椅子に見立てていないか。
レールに沿って生きてきた自分自身は、まるで量販店の椅子みたいだ、なんて思っている。
(ああ、まあ、否定はしない)
がたつきが出てきても、この椅子はまだまだ使われる。
もう十年くらい、ずっとここで使われる。
壊れるまで使うかもしれない。だとしたら、もっともっと長い間、使われるかもしれない。
そう思うと、このがたついた椅子が愛おしくもなる。
その一方で、俺はあの、カヴァースから送られてきたラウンドチェアに強烈な憧れを覚えるのだ。
伝統あるメーカーの、優れた職人が、独自の手法で作り上げた品。
美しいフォルム。使い心地の良さ。
あれには、あの品物にしかないものがある。
桂は、あのラウンドチェアみたいな奴だ。
そして、小池ゆかもきっと、そうなるのだろう。
気がついたら俺は、指でピックをつまみ、弦を軽く弾くような手つきを繰り返していた。
もう片方の指は、コードの形を作っていた。
あんなに練習していたから、忘れようがない。体が覚え込んでしまっているのだ。
シックス。
セブンスフラッド。
セブンスシャープ。
ああそうだ。
誰だって夢がある。
その夢を、いつから手放してしまうのだろう。
夢を手放して生きることが大人になることだ、それがレールに乗ることだ、レールに乗りさえすれば人生がうまくいく。
だけど、レールに乗らない奴も当然いる。
どっちを選ぶかは自分たちの自由だ。
俺はただ、レールから外れた奴を妬むだけの人間にはなりたくない。
家に帰ると、食事は既にできていた。
俺を待ってくれていた食卓を見ると、やはり幸せを感じる。
「かのこ」
と、呼んだが返事がないので家の中を探したら、思った通り、縁側のラウンドチェアで、うとうとと眠っていた。
満ち足りた寝顔だった。