解けない魔法 第1章: プロポーズ

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カヴァース小説部

第1章: プロポーズ

黒い革張りのソファは、どっしりと風格のある佇まいで鎮座し、部屋でくつろぐ男女を優しく包み込んでいる。隼人のマンションにある二人掛けのHTLソファは、背もたれが大柄で柔らかく、深く座り込んで体重を預けると、からだ全体が雲に乗っているような安らぎに包まれた。

「美咲はいつもソファに座ってるね」

「え、そう?そんなことないと思うけど、そうかな?」

「ふふ、でも、それだけリラックスしてもらってるかと思うと、なんか嬉しいよ」

「本当?じゃあお言葉に甘えて、とことんリラックスしてようかな」

「うん、そうしててよ、僕は適当に本読んだりしてるから」

そう言うと隼人は、コーヒーテーブルに置いていた雑誌を手に取り、パラパラとページを繰った。美咲はソファにもたれながら、ぼんやりと愛しい人の姿を眺め、ゆっくりと瞼を重くしていった。

美咲と隼人は付き合って三年になる。桜の花が咲き誇る季節に初めてキスをし、真夏の星空に見守られながら初めて身を結んだ。お互い三十歳を過ぎた大人だったにも関わらず、美咲と隼人は、ゆっくりと時間をかけ、ふたりの距離を近付ける恋愛をしていた。付き合い始めてから初めて隼人のマンションに行った時、美咲はリビングの中央に配された黒革のソファに目が奪われた。上質なレザーの艶めき、柔らかく滑らかな手触り。細部にまで行き届いた手仕事。肘掛けは大きな平面でありながら、背もたれは身を包み込むように高くて厚みがある。

「このソファ、、懐かしい、、、」

「懐かしい?」

「うん、この革の感じ、私の実家にも同じブランドのソファがあったの。えっと、なんだけ、このソファ、、、」

「HTLだよ」

「そう、HTL。たしか、シンガポールだっけ?外国のブランドなのよね?これ」

「うん、そうだよ。うちも父親がここのソファが好きで、実家にもこのブランドのソファがあるんだ。と言っても、実家にあるソファはもっと大きくて値段も高くて、僕にはとても買えないけどね」

苦笑しながら、隼人は黒革のソファを愛おしそうに撫でた。美咲も実家のソファを思い出しながら、隼人の手に自分の手を重ね合わせるようにして、レザーの感触を確かめた。その柔らかさと温もりは、美咲が幼い頃に家族で過ごした、懐かしい気持ちを思い起こさせた。

「お父さんお母さんと、恵梨香と、四人で一緒にソファに座って、よくテレビ観てたりとかしたなあ、、懐かしい、、」

幸せな家族での時間に想いを馳せ、美咲は目を細めながら微笑んだ。

「美咲、、、」

その温もり溢れる恋人の横顔に、隼人の心は人生を決める何かを予感した。

いつの間にか深い眠りについていた美咲は、ふと目を覚まし、辺りを見渡す。リビングの中をきょろきょろと見渡してみるが、そこに隼人の姿はない。からだには毛布が掛けられていた。おそらく隼人が掛けてくれたのだろう。恋人の静かな優しさにときめきながら、美咲は尚も辺りをうかがい、眠りから現実へと意識を戻していく。窓の外はすっかり夕暮れのオレンジ色に染まり、細長い雲が遠くの空で静かに風に流されている。美咲は毛布にくるまれた身をゆっくりと起こすと、まどろみの残る重い瞼をそっと擦った。すると柔らかい瞼に、何かしら硬い金属質な感触があった。美咲は驚いて目を見開き、反射的に自分の指を見やる。左手の薬指。そこには夕暮れの光を受けて輝く、眩いダイヤモンドリングがはめてあった。

「えっ、、あ、、、ああ、、」

美咲はあまりに突然の出来事に、まともに声も出せず、喉奥から細い息をもらした。目覚めたら指にダイヤの指輪がはめてある。その事実がうまくのみ込めず、手首をくるくると表に裏にひっくり返したり、指を目の前に近付けたり遠ざけたりして、夢と現実の境目を見定める。しっかりと事実を認識して、今すぐにでも喜びの声を上げたいところだが、これがまだ夢の中だったらと思うと、美咲は怖くて感情を表に出すことが出来ない。

「えっ、えっ?隼人、、どこなの?これは夢なの?隼人、、どこなの?」

恋人の不在が次第に不安に思えてきた美咲は、ダイヤモンドリングを胸に当てながら、先ほどよりも真剣に辺りを見渡した。しかし当然ながら何度リビングの中を見渡したところで、隼人の存在はない。美咲は不安をかき消すように、身を預けているソファの革を手の平でさする。その柔らかい感触は、不思議と心を落ち着かせ、美咲に冷静な思考を取り戻させた。

美咲は立ち上がって、身を包んでいた毛布を剥ぐと、それを丁寧に畳んでソファに置いた。指には高価で美しい炭素の結晶が輝いている。きっとこれは夢じゃない。美咲は自分にそう言い聞かせると、リビングから廊下へと繋がる扉を開けた。すると廊下の奥のトイレから、水の流れる音がした。

「隼人、、、?」

水が流れ終えると、がさがさと衣服を整える音が聞こえ、トイレの扉がガチャリと開かれた。一瞬、美咲の身体に緊張が走り、思わずごくりと唾をのむ。これがまだ夢の中だったら、トイレから出てくるのは泥棒かもしれないし、悪魔かもしれない。美咲は祈るような気持ちで指輪を握りしめ、扉から出てくる人影を注視した。

「あ、美咲、起きたんだ」

トイレから出てきたのは、あまりに普段通りで、いつも以上に日常的な隼人そのものだった。

「隼人、、な、何してたのよ!」

拍子抜けさせられて、思わず憤りにも似た不服の感情が口から飛び出す。

「な、何って、、トイレだけど、、、いや、ごめん、最近、便秘気味だから中々出なくてさ、、、」

「知らないわよ、そんな、便秘だなんて!」

「ご、ごめん、そんなに怒らなくても、、、」

用を足し終えた途端に、恋人から激しい感情で詰め寄られ、さすがに隼人も閉口してしまう。

「怒るに決まってるじゃない!だって、あなた、恋人の指にこんなの着けておきながら、便秘でトイレに籠ってるなんて、、、そんな、そんなのってあんまりじゃない!」

不安と安堵、怒りと喜び。様々な感情がないまぜになって、美咲は思わず声を荒げてしまう。

「ご、ごめんよ、だって美咲があんまり深く眠っているし、僕は僕でお腹の調子が崩れてしまうし、しょうがなかったんだよ」

「しょうがなくないわよっ、もう、隼人のバカ、バカ、バカ!」

美咲は乱心しながら涙ぐむと、隼人の胸の中へと顔を埋め、収まりの付かない両手で恋人の胸板を何度も叩いた。一度振り切れた感情は簡単には鎮まらず、まるで噴火した火山みたいに、内在するエネルギーを放出し続けた。胸の中で泣きじゃくる恋人。そんな愛しい人のことを、隼人は何も言わずに抱きしめた。

「もう、何よ、驚かせたり不安にさせたりして、その後で優しくするなんて、もう、ずるいわよ、もう、隼人のバカ」

乱れた感情が落ち着かない美咲は、隼人の優しさにまで八つ当たりした。しかし、そんな不当な文句に対しても、隼人は何も言わずに美咲を抱きしめ続けた。器の小さい自分を、大きな愛情で包み込む優しさ。心の底から安らぎを覚えるその抱擁は、陽だまりのような温もりと、炎のような熱を同時に感じさせてくれた。ひとしきり感情の波が落ち着くと、ようやく涙が止まってきた。気が付くと隼人の服の胸の部分は、美咲の涙と鼻水でぐっしょりと濡れてしまっていた。

「ごめん、私のせいで、隼人の服、、、」

美咲が申し訳なさそうに顔を上げると、隼人はにっこりと微笑んだ。

「美咲、大事な話があるんだ、ちょっといいかな?」

隼人がそう言うと、美咲は黙ったままコクリと頷いた。羞恥心で顔は真っ赤に染まり、行き先をなくした指先がもじもじと交差する。すると隼人は、行き場をなくした美咲の指先を取り、そっと手を握りしめた。優し過ぎる恋人の愛情に照れながら、美咲は手を握り返し、隼人の身体に寄り添った。

手を繋ぎながらリビングに戻ると、二人は並んでソファに腰かけた。ゆっくりと黒革をしならせ、ソファにその身を沈め、何も言わずに見つめ合う二人。その幸せな瞬間に、美咲は時が止まったような錯覚をおぼえる。

「美咲、その指輪は、僕からの誓いなんだ」

「誓い、、、」

隼人は、美咲の左手の薬指にはめてある指輪に触れると、ゆっくりと光り輝くダイヤモンドリングを抜き取った。そして指輪越しに真っ直ぐな視線を投げかける。

「美咲、、、」

「は、はい、、、」

一点の曇りもない澄んだ瞳で、隼人は正面から美咲を見据える。

「一生解けない魔法をかけてもいいですか?」

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