ハートキャッチャー 序章: 確かな幸せ

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カヴァース小説部

序章: 確かな幸せ

ダブルベッドで眠る理紗子と郁男は、安らぎと充足感に包まれながら、静かな寝息をたてていた。質の確かなベッドのコイルが、眠っている夫婦の身体を丁寧に受け止め、優しい反発で押し返してくれる。ときおり理紗子が寝返りをうつが、全体に張られた上質なベッドのコイルが動きを甘受し、夫婦は静かに眠り続ける。理紗子と郁男は、結婚してから購入したこのフランスベッドが気に入り、いつも穏やかで仲の良い眠りを共にすることが出来た。それは二人の生活の中で、確かな幸せを感じられることの一つだった。

理紗子は来月で四十歳の誕生日を迎える。郁男は夜中にふと目を覚まし、すやすやと眠る理紗子の顔を見つめた。一カ月後に控えたサプライズのプレゼント。きっと理紗子は喜んでくれるだろう。そんな幸せなイメージを膨らませては微笑み、郁男は再び眠りについた。


「私、彼にフラれてしまって、もうどうしたらいいのか分からなくて、、ううっ、、」

カウンセリングを受けにきた女性は、ソファに座って泣き崩れていた。理紗子はその女性を優しい目で見つめながら、泣いている姿の全体像をぼんやりと把握した。

心理カウンセラーとして働く理紗子は、十年前に個人のカウンセリングルームを開業し、日々悩める人たちの心に寄り添っていた。カウンセラーとして十五年以上のキャリアをもつ理紗子は、実績も信頼も厚く、毎日多くの人がカウンセリングルームを訪れていた。

「そうだったの、、彼のこと、大好きだったのね、、、」

「はい、私、彼のことが大好きで大好きで、結婚してずっと一緒にいたいと思ってたのに、、それなのに、こんな、、ああ、、うっ、、、」

女性は嗚咽しながら、カウンセリングルームの中で泣きじゃくった。涙を流し、言葉にならない声をあげ、弱った心を理紗子の前に曝け出した。理紗子は女性のためにティッシュを差し出した。女性は涙を拭き、鼻をかみながら、尚もその場で泣き続けた。

「とても悲しかったのね、、、」

そう言って理紗子が女性の気持ちに寄り添うと、女性はつぶらな瞳を泣き腫らし、大きく頷いた。

「はい、、そうなんです、、私、悲しくて悲しくて、、もう、どうしたらいいか分からなくて、、先生、、私、、どうしたらいいんでしょう、、ううっ、、、」

理紗子は、女性の震える肩を温かい眼差しで見つめながら、柔らかな口調で言葉をかけた。

「悲しい時は、、そうやってたくさん涙を流しましょう、、人の心って案外単純だから、泣くべき時にちゃんと泣いてあげるって、けっこう大事だったりするわよ、、、」

そう言って理紗子は優しく微笑んだ。その笑顔を見て、女性はまたひときわ大粒の涙を流して泣いた。まるで夜明けを告げる御来光のような理紗子の微笑みは、硬く強張った女性の心を優しく包み込み、悲しい気持ちをしっかりと甘受してくれた。

「そうだ、あなた甘いもの好きだったわよね?美味しいクッキーがあるから、よかったら食べていって」

理紗子が思い出したように席を立つと、戸棚から箱に入ったクッキーを取り出した。

「これね、動物クッキーなの」

「ど、動物、、うっ、、クッキー、、?」

女性は泣きながらも、唐突に出された動物クッキーに反応する。

「そうなの、動物の形をしたクッキーなんだけど、ちょっと変わっててね、これはナマケモノ、こっちはマングース、これはタスマニアデビルかな?」

「タスマニア、、、?」

変わった形の動物クッキーが差し出され、泣いていた女性の涙が思わず引っ込んでしまう。聞いたことはあるけど、姿形は思い浮かばないような動物のクッキー。そんな一風変わったクッキーの登場に、女性は一瞬、悲しみの渦中にいるのを忘れてしまう。

「そう、タスマニアデビル。名前のわりに可愛い顔してるでしょ?この可愛い動物たちの顔を思いっきりがぶって食べると、何だか妙に気持ちがすっきりする時があるのよ。よかったらどうぞ」

そう言われて、泣いていた女性の前にタスマニアデビルのクッキーが差し出された。子熊のような猫のような可愛いい顔をしたクッキーを見つめると、女性の中で弱っていたメンタルが音を立てて起き上がる様子が感じられた。思い切ってそのクッキーの顔を食べてみると、理紗子の言う通り、凝り固まっていた気持ちのどこかが、ほんの少しやわらいだ気がした。

「このクッキー、、ううっ、、、美味しいです、、先生、、、うっ、、」

「ふふふ、、よかったわ」

泣きながらもクッキーを頬張る女性を見つめ、理紗子は優しく微笑んだ。

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