ハートキャッチャー 第2章: 眠りへの誘い

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カヴァース小説部

第2章: 眠りへの誘い

「全然眠れないんですね?」

「はい、とくに悩み事があるとか、病気になったとか、そういう訳じゃないんですけど、なぜか最近まったく眠れなくて、、、」

理紗子のカウンセリングルームを訪れた男性は、これといった理由もなく不眠になっているという悩みを打ち明けた。

「病院とかには一通りかかったという事なんでしょうか?」

「はい、いろいろと病院で検査したり、薬を出してもらったり、精神科や他のカウンセリングなども行ってみたりしましたが、とくにこれといった原因もなくて、、」

「そうですか、、」

理紗子はソファに座る男性の全体像をぼんやり見つめ、その佇まいを把握した。眠りとは簡単であると同時に難しいものでもあり、天気のように気紛れなときがある。理紗子の頭の中にそんな言葉が浮かび上がった。昔どこかの本で読んだ言葉だっただろうか。男性の佇まいを見つめながら、しばらくそんな言葉を頭の中で反芻していた。理紗子はまず、男性の気持ちになってあげようと思い、自分の心の形を男性の心の形に合わせるイメージを膨らませた。そうして気持ちを受容する準備が整うと、ゆっくりと男性の心情を汲みとり、相手の心が安寧する様を意識の中に浮かび上がらせた。

やがて理紗子は席を立つと、お茶を淹れて男性の前に差し出し、とりとめのない雑談をはじめた。男性の趣味の話を聞き、学生時代の思い出話や家族の話を聞いてあげた。そんな他愛もないちょっとした雑談。しばらくそうして雑談をしたあと、理紗子は唐突に男性に質問を投げかけた。

「ちなみに、泳げない魚ってご存じですか?」

「えっ?泳げない、魚ですか、、?」

「はい、そうです」

「いえ、知りません、、いるんですか?そんな魚?」

「さあ分かりません」

「分からない、、?」

「はい、ただ私は夜眠れない時は、いつも泳げない魚のことを考えるんです。そうすると光も届かない海の底で口をパクパク開けている魚が思い浮かぶんです。そしてその魚が一体どうやって生きているんだろう、っていろいろと想像するんです」

「はあ、、」

「そうして想像を膨らませば膨らますほど、自分が段々とその魚になった気持ちになっていって、気が付くと眠ってしまうんです」

「はあ、なるほど、、、」

「よかったら試してみてください。けっこう楽しいですよ、泳げない魚の気持ちになりきるのって」

不思議な話だと思いながらも、男性は妙にその話に納得し、自分も試してみたい気持ちになった。泳げない魚になって、海や川の中で生きていく。そんな不思議で興味深い世界を、めいっぱい想像してみたいと思った。それで本当に眠れるかどうかは分からない。ただ、そんな事とは関係なしに、夜中にベッドで横になりながら、とことん泳げない魚になりきって、その様子を想像してみたい。そんな未知なる衝動が、男性の心の奥の何かをノックした。

「理紗子のカウンセリングって、ちょっと変わってるよね」

就寝前のベッドでの語らい。郁男はぼんやり天井を眺めながら、正直な感想を理紗子に告げた。

「そう?」

「だって、自分が実践してるとはいえ、眠れない人に泳げない魚の話をすることもあるんだろ?」

「ええ、そうね」

「そんなカウンセリングのやり方って、本や教科書には絶対載ってないよね」

「そりゃあもちろんそうだけど、でも、やっぱり人の心ってそれぞれ全く違うから、その人に合わせた受け止め方とか寄り添い方っていうのが、どうしても必要になってくるのよ」

「それで魚とかクッキーとかが出てくるわけだ」

「それはもちろん極端な例だけれど、でもその人の心の形に合わせて、こっちも受け止める方を変えてあげるっていうのは、とても大事なことなの。そうしてピッタリとその人の心を受け止められた時、その時はじめて、人はちょっと安心できるものだって、私は思っているから」

「なるほど、人に合わせた形ね」

理紗子はごろりと寝返りをうち、隣で横になっている郁男に顔を向けように姿勢を変えた。理紗子の瞳は一点の曇りもなく、純粋な想いを宿して輝いている。心から仕事を楽しみ、人の役に立ちたいと願う、清らかで澄んだ瞳だ。寝室の中から夜空の星は望めないが、それでもここには何よりも美しい一番星が煌めいている。そう思って、郁男はトクンと鼓動を弾ませた。

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