幸せな場所を作ろう 第1章: ここに欠けているもの

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カヴァース小説部

第1章: ここに欠けているもの

 「今度は来月の12日ですね」

 

 結城さんが、ふかふかとしたシャギーのコートを羽織り、教室を出ようとして振り向いて言った。

 丸い眼鏡にベレー帽。わたしなんかより、よっぽど「作家」っぽく見える。一応、わたしにも「生徒さん」はいる。ほんの数名だけど。

 受け取った課題の原稿用紙を手元にまとめながら、わたしは「そうです。雪で大変だったら無理せず休みましょう」と答えておいた。いえいえ、来ますよ、貴重な月一のレッスンですもの、と結城さんは笑った。そうして軽くお辞儀をし、出ていった。

 寒そうな校庭の風景が広がる窓。

 原稿に目を走らせつつ、ふっと気配を感じて窓を見たら、結城さんが満面の笑顔で手を振っていた。先生と生徒だなんて大層な関係ではなく、同じ志を持つ仲間として、お別れをする。また来月ね。元気で。

 「フー」

 ため息が出た。

 ポットのお湯でインスタントコーヒーを淹れながら、閑散とした部屋の中を見回す。

 

 この廃校を四人のアトリエに決めた。夢の中に飛び込んで、はや数ヶ月。なんとか「生徒さん」と呼べる人を持つことができた。

 ナツにしても、ハルにしても、わたしと似たり寄ったりの状態だ。四人はそれぞれスクールを持ちつつ、自分のクリエイターの仕事を続けている。ほそぼそとした収入がほとんどだが、このところ、少しずつ、ちょっとした良い仕事が入るようになってきた。先は長い。

 アキは、その「先の長さ」に耐えられなかったのか。

 熱いコーヒーを飲みながら、やっぱり思考は去ってしまった仲間のことに向かう。

 いや、違う。

 アキは少なくとも、根性なしではない。これと決めたことはやり遂げるタイプだ。貧乏を楽しんでしまうタイプだ。

 じゃあ、なぜ。

 原稿をコーヒーで汚さないように、コーヒーのマグを持って机から離れた。窓から外を眺めると、どんどん葉を落として裸になってゆく木々の向こうに赤や黄色で色づいた山が見える。グレーの空に、紅葉はよく映えた。わたしは、その鮮やかな色彩の中で、水彩画の筆を執るアキの姿を思い浮かべた。スリムジーンズと、黒い丸首セーター、少し汚れた革のジャケットを羽織り、いつでもすぐにでもどこにでも行けるような身軽さで、嬉しそうに笑っているアキ。

 部屋の中を見回した。閑散とした風景。古い小さな小学生用の机と椅子が5セット、並んでいる。廃校の備品を使わせてもらっているのだ。

 わたしが使っているのは、教員用のグレーの机である。がたがたと引き出しが音を立てる代物だ。

 ぎし。

 音を立てる木の床。

 

 アキの気持ちは分からない。

 けれど、こんなふうにアトリエの屋内を眺めていると、なんとなく寂しく、心もとない気分になるのは分かる。

 何が足りないのだろう。ここには仲間もいて、夢もあって、叶いつつある希望も芽吹いているというのに。

 わたしはわたしの「心もとなさ」に手を焼いている。確かに時折、ここから飛び出したくなる。

 (ああ、そうか)

 温かな部屋。美味しい料理が香るダイニング。座り心地の良い椅子や、ふかふかとした極上のベッド。安らげるソファ。

 心はいつでも、「家」に帰る。

 もちろん、故郷の実家のことではない。心に描いているのはこの世に存在しないものなのかもしれない。

 そこは、お気に入りの家具で構成された、とても安らげる素敵な世界。そこで仲間たちと一緒に、豊かで楽しい人生を送ることができている。マイスイートホーム。

 

 (家が、欲しいなあ)

 ぽつんと泡のように浮き上がる思い。

 

 ここは夢のスタートラインだけど、あまりにも寂しい。

 アキは三人きょうだいの末っ子だし、お姉ちゃんやお母さんにかわいがられて育ったと聞く。

 そんなアキだから、もしかしたら余計に、安らげる環境とか、居心地の良さとか、優しく自分を包んでくれる場所に飢えていたのかもしれないなあ、などと思った。

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